めてむぞうさにこう言うのだった。
「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」

     三八 柔術

 僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸《はまちょうがし》の大竹という道場へもやはり寒稽古《かんげいこ》などに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投《ともえな》げを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へ坐《すわ》っていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取《とっとり》の農林学校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。

     三九 西川英次郎

 西川は渾名《あだな》をライオンと言った。それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。中学の四年か五年の時に英訳の「猟人日記」だの「サッフォオ」だのを読みかじったのは、西川なしには
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