うつつ》の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。

     一七 幼稚園

 僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院《えこういん》の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅《すみ》には大きい銀杏《いちょう》が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾《はさ》んだのを覚えている。それからまたある円顔《まるがお》の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇《あ》い、そのころのことを話し合った末、「先方でも覚えているかしら」と言った。
「そりゃ覚えていないだろう」
 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合わない、萩《はぎ》や芒《すすき》に露の玉を散らした、袖《そで》の長い着物を着ていたものである。

     一八 相撲

 相撲《すもう》もまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕の家《うち》の裏の向こうは年寄りの峯岸《みねぎし》の家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山《ひたちやま》や梅ヶ谷の全盛を極《きわ》めた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破ったため、大評判になったのを覚えている。いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾《さかほこ》でもどこか錦絵《にしきえ》の相撲に近い、男ぶりの人に優《すぐ》れた相撲はことごとく僕の贔屓《ひいき》だった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりも体《からだ》が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束《わらたば》ねにした褌《ふんどし》かつぎが相撲膏《すもうこう》を貼《は》っていたためかもしれない。

     一九 宇治紫山

 僕の一家は宇治紫山《うじしざん》という人に一中節《いっちゅうぶし》を習っていた。この人は酒だの遊芸だのにお蔵前の札差しの身上《しんしょう》をすっかり費やしてしまったらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の悪かったのを覚えている。また小さい借家にいても、二、三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。
 この「お師匠さん」は長命だっ
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