理は、第一に、林右衛門の頑健な体を憎んだ。それから、本家《ほんけ》の附人《つけびと》として、彼が陰《いん》に持っている権柄《けんぺい》を憎んだ。最後に、彼の「家」を中心とする忠義を憎んだ。「主《しゅう》を主《しゅう》とも思わぬ奴じゃ。」――こう云う修理の語の中《うち》には、これらの憎しみが、燻《くすぶ》りながら燃える火のように、暗い焔を蔵していたのである。
 そこへ、突然、思いがけない非謀《ひぼう》が、内室《ないしつ》の口によって伝えられた。林右衛門は修理を押込め隠居にして、板倉佐渡守の子息を養子に迎えようとする。それが、偶然、内室の耳へ洩《も》れた。――これを聞いた修理が、眦《まなじり》を裂いて憤ったのは無理もない。
 成程、林右衛門は、板倉家を大事に思うかも知れない。が、忠義と云うものは現在|仕《つか》えている主人を蔑《ないがしろ》にしてまでも、「家」のためを計るべきものであろうか。しかも、林右衛門の「家」を憂《うれ》えるのは、杞憂《きゆう》と云えば杞憂である。彼はその杞憂のために、自分を押込め隠居にしようとした。あるいはその物々しい忠義|呼《よば》わりの後に、あわよくば、家を横領しようとする野心でもあるのかも知れない。――そう思うと修理は、どんな酷刑《こっけい》でも、この不臣の行《おこない》を罰するには、軽すぎるように思われた。
 彼は、内室からこの話を聞くと、すぐに、以前彼の乳人《めのと》を勤めていた、田中宇左衛門という老人を呼んで、こう言った。
「林右衛門めを縛《しば》り首にせい。」
 宇左衛門は、半白の頭を傾けた。年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層|皺《しわ》を増している。――林右衛門の企《くわだ》ては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの附人《つけびと》である。
「縛り首は穏便《おんびん》でございますまい。武士らしく切腹でも申しつけまするならば、格別でございますが。」
 修理はこれを聞くと、嘲笑《あざわら》うような眼で、宇左衛門を見た。そうして、二三度強く頭を振った。
「いや人でなし奴《め》に、切腹を申しつける廉《かど》はない。縛り首にせい。縛り首にじゃ。」
 が、そう云いながら、どうしたのか、彼は、血の色のない頬《ほお》へ、はらはらと涙を落した。そうして、それから――いつものように両手で、鬢《びん》の毛をかきむしり始めた。

       ―――――――――――――――――――――――――

 縛り首にしろと云う命が出た事は、直《ただち》に腹心の近習《きんじゅ》から、林右衛門に伝えられた。
「よいわ。この上は、林右衛門も意地ずくじゃ。手を拱《こまぬ》いて縛り首もうたれまい。」
 彼は昂然として、こう云った。そうして、今まで彼につきまとっていた得体《えたい》の知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。もう修理は、彼にとって、主人ではない。その修理を憎むのに、何の憚《はばか》る所があろう。――彼の心の明るくなったのは、無意識ながら、全く彼がこう云う論理を、刹那《せつな》の間に認めたからである。
 そこで、彼は、妻子家来を引き具して、白昼、修理の屋敷を立ち退《の》いた。作法《さほう》通り、立ち退き先の所書きは、座敷の壁に貼《は》ってある。槍《やり》も、林右衛門自ら、小腋《こわき》にして、先に立った。武具を担《にな》ったり、足弱を扶《たす》けたりしている若党|草履《ぞうり》取を加えても、一行の人数《にんず》は、漸く十人にすぎない。それが、とり乱した気色もなく、つれ立って、門を出た。
 延享《えんきょう》四年三月の末である。門の外では、生暖《なまあたたか》い風が、桜の花と砂埃《すなほこり》とを、一つに武者窓へふきつけている。林右衛門は、その風の中に立って、もう一応、往来の右左を見廻した。そうして、それから槍で、一同に左へ行けと相図をした。

     二 田中宇左衛門

 林右衛門《りんえもん》の立ち退《の》いた後は、田中宇左衛門が代って、家老を勤めた。彼は乳人《めのと》をしていた関係上、修理《しゅり》を見る眼が、自《おのずか》らほかの家来とはちがっている。彼は親のような心もちで、修理の逆上《ぎゃくじょう》をいたわった。修理もまた、彼にだけは、比較的従順に振舞ったらしい。そこで、主従の関係は、林右衛門のいた時から見ると、遥に滑《なめらか》になって来た。
 宇左衛門は、修理の発作《ほっさ》が、夏が来ると共に、漸く怠《おこた》り出したのを喜んだ。彼も万一修理が殿中で無礼を働きはしないかと云う事を、惧《おそ》れない訳ではない。が、林右衛門は、それを「家」に関《かかわ》る大事として、惧れた。併し、彼は、それ
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