を「主《しゅう》」に関る大事として惧れたのである。
勿論、「家」と云う事も、彼の念頭には上《のぼ》っていた。が、変があるにしてもそれは単に、「家」を亡すが故に、大事なのではない。「主《しゅう》」をして、「家」を亡さしむるが故に――「主《しゅう》」をして、不孝の名を負わしむるが故に、大事なのである。では、その大事を未然《みぜん》に防ぐには、どうしたら、いいであろうか。この点になると、宇左衛門は林右衛門ほど明瞭な、意見を持っていないようであった。恐らく彼は、神明の加護と自分の赤誠とで、修理の逆上の鎮まるように祈るよりほかは、なかったのであろう。
その年の八月一日、徳川幕府では、所謂《いわゆる》八朔《はっさく》の儀式を行う日に、修理は病後初めての出仕《しゅっし》をした。そうして、その序《ついで》に、当時|西丸《にしまる》にいた、若年寄の板倉佐渡守を訪うて、帰宅した。が、別に殿中では、何も粗※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》をしなかったらしい。宇左衛門は、始めて、愁眉《しゅうび》を開く事が出来るような心もちがした。
しかし、彼の悦びは、その日一日だけも、続かなかった。夜《よる》になると間もなく、板倉佐渡守から急な使があって、早速来るようにと云う沙汰が、凶兆《きょうちょう》のように彼を脅《おびやか》したからである。夜陰に及んで、突然召しを受ける。――そう云う事は、林右衛門の代から、まだ一度も聞いた事がない。しかも今日は、初めて修理が登城をした日である。――宇左衛門は、不吉《ふきつ》な予感に襲われながら、慌《あわただ》しく佐渡守の屋敷へ参候した。
すると、果して、修理が佐渡守に無礼の振舞があったと云う話である。――今日出仕を終ってから、修理は、白帷子《しろかたびら》に長上下《ながかみしも》のままで、西丸の佐渡守を訪れた。見た所、顔色《かおいろ》もすぐれないようだから、あるいはまだ快癒がはかばかしくないのかと思ったが、話して見ると、格別、病人らしい容子《ようす》もない。そこで安心して、暫く世間話をしている中に、偶然、佐渡守が、いつものように前島林右衛門の安否を訊ねた。すると、修理は急に額を暗くして、「林右衛門めは、先頃《さきごろ》、手前屋敷を駈落《かけお》ち致してござる。」と云う。林右衛門が、どう云う人間かと云う事は、佐渡守もよく知っている。何か仔細《しさい》がなくては、妄《みだり》に主家《しゅか》を駈落ちなどする男ではない。こう思ったから、佐渡守は、その仔細を尋ねると同時に、本家からの附人《つけびと》にどう云う間違いが起っても、親類中へ相談なり、知らせなりしないのは、穏《おだやか》でない旨を忠告した。ところが、修理は、これを聞くと、眼の色を変えながら、刀の柄《つか》へ手をかけて、「佐渡守殿は、別して、林右衛門めを贔屓《ひいき》にせられるようでござるが、手前家来の仕置は、不肖ながら手前一存で取計らい申す。如何に当時|出頭《しゅっとう》の若年寄でも、いらぬ世話はお置きなされい。」と云う口上である。そこでさすがの佐渡守も、あまりの事に呆《あき》れ返って、御用繁多を幸に、早速その場を外《はず》してしまった。――
「よいか。」ここまで話して来て、佐渡守は、今更のように、苦い顔をした。
――第一に、林右衛門の立ち退いた趣を、一門衆へ通達しないのは、宇左衛門の罪である。第二に、まだ逆上の気味のある修理を、登城させたのも、やはり彼の責を免れない。佐渡守だったから、いいが、もし今日のような雑言《ぞうごん》を、列座の大名衆にでも云ったとしたら、板倉家七千石は、忽《たちま》ち、改易《かいえき》になってしまう。――
「そこでじゃ。今後は必ずとも、他出無用に致すように、別して、出仕登城の儀は、その方より、堅くさし止むるがよい。」
佐渡守は、こう云って、じろりと宇左衛門を見た。
「唯《た》だ主《しゅう》につれて、その方まで逆上しそうなのが、心配じゃ。よいか。きっと申しつけたぞ。」
宇左衛門は眉をひそめながら、思切った声で答えた。
「よろしゅうござりまする、しかと向後《こうご》は慎むでございましょう。」
「おお、二度と過《あやまち》をせぬのが、何よりじゃ。」
佐渡守は、吐き出すように、こう云った。
「その儀は、宇左衛門、一命にかけて、承知仕りました。」
彼は、眼に涙をためながら懇願するように、佐渡守を見た。が、その眼の中には、哀憐《あいれん》を請う情と共に、犯し難い決心の色が、浮んでいる。――必ず修理の他出を、禁ずる事が出来ると云う決心ではない。禁ずる事が出来なかったら、どうすると云う、決心である。
佐渡守は、これを見ると、また顔をしかめながら、面倒臭そうに、横を向いた。
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