らないが、どうやら鼻紙|嚢《ぶくろ》から鋏《はさみ》を出して、そのかき乱した鬢《びん》の毛を鋏んででもいるらしい。そこで宗賀《そうが》は、側へよって声をかけた。
「どなたでござる。」
「これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。」
 男は、しわがれた声で、こう答えた。
 もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男を厠《かわや》の中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。
 御徒目付はまた、それを蘇鉄《そてつ》の間《ま》へつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、刃傷《にんじょう》の仔細《しさい》を問い質《ただ》した。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。偶々《たまたま》口を開けば、ただ時鳥《ほととぎす》の事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、発狂《はっきょう》していたのである。

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 細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、大御所《おおごしょ》吉宗《よしむね》の内意を受けて、手負《てお》いと披露《ひろう》したまま駕籠《かご》で中の口から、平川口へ出て引きとらせた。公《おおやけ》に死去の届が出たのは、二十一日の事である。
 修理《しゅり》は、越中守が引きとった後《あと》で、すぐに水野|監物《けんもつ》に預けられた。これも中の口から、平川口へ、青網《あおあみ》をかけた駕籠《かご》で出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の帷子《かたびら》を着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、警固《けいご》した。――この行列は、監物《けんもつ》の日頃不意に備える手配《てくばり》が、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。
 それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、上使《じょうし》に立った。上使の趣は、「其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守|手疵養生《てきずようじょう》不相叶《あいかなわず》致死去《しきょいたし》候に付、水野監物宅にて切腹|被申付《もうしつけらるる》者也」と云うのである。
 修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする気色《けしき》もない。そこで、介錯《かいしゃく》に立った水野の家来吉田|弥三左衛門《やそうざえもん》が、止むを得ず後《うしろ》からその首をうち落した。うち落したと云っても、喉《のど》の皮|一重《ひとえ》はのこっている。弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。頬骨《ほおぼね》の高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。
 検使は、これを見ると、血のにおいを嗅《か》ぎながら、満足そうに、「見事」と声をかけた。

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 同日、田中宇左衛門は、板倉式部の屋敷で、縛り首に処せられた。これは「修理病気に付、禁足申付候様にと屹度《きっと》、板倉佐渡守兼ねて申渡置候処、自身の計らいにて登城させ候故、かかる凶事出来《きょうじしゅったい》、七千石断絶に及び候段、言語道断の不届者《ふとどきもの》」という罪状である。
 板倉|周防守《すおうのかみ》、同式部、同佐渡守、酒井|左衛門尉《さえもんのじょう》、松平|右近将監《うこんしょうげん》等の一族縁者が、遠慮を仰せつかったのは云うまでもない。そのほか、越中守を見捨てて逃げた黒木|閑斎《かんさい》は、扶持《ふち》を召上げられた上、追放になった。

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 修理《しゅり》の刃傷《にんじょう》は、恐らく過失であろう。細川家の九曜《くよう》の星と、板倉家の九曜の巴と衣類の紋所《もんどころ》が似ているために、修理は、佐渡守を刺《さ》そうとして、誤って越中守を害したのである。以前、毛利主水正《もうりもんどのしょう》を、水野|隼人正《はやとのしょう》が斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、手水所《ちょうずどころ》のような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。
 が、板倉佐渡守だけは、この定評をよろこばない。彼は、この話が出ると、いつも苦々しげに、こう云った。
「佐渡は、修理に刃傷されるような覚えは、毛頭《もうとう》ない。まして、あの乱心者のした事じゃ。大方《おおかた》、何と云う事もなく、肥後侯を斬ったのであろう。人違などとは、迷惑至極な臆測じゃ。その証拠には、大目付の前へ出ても、修理は、時鳥《ほととぎす》がどうやら云うていたそうではないか。されば、時
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