ならなかったらしい。
それが、翌日になると、また不吉《ふきつ》な前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻上下《あさがみしも》に着換えてから、八幡大菩薩に、神酒《みき》を備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓《こしょう》の手から神酒《みき》を入れた瓶子《へいし》を二つ、三宝《さんぼう》へのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。
―――――――――――――――――――――――――
翌日、越中守は登城すると、御坊主《おぼうず》田代祐悦《たしろゆうえつ》が供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木|閑斎《かんさい》をつれて、湯呑み所際《じょぎわ》の厠《かわや》へはいって、用を足《た》した。さて、厠を出て、うすぐらい手水所《ちょうずどころ》で手を洗っていると突然|後《うしろ》から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間《みけん》へ閃《ひらめ》いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀《いくたち》となく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、四《し》の間《ま》の縁に仆《たお》れてしまうと、脇差《わきざし》をそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼狽《ろうばい》して、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃傷《にんじょう》を知るものがない。それを、暫くしてから、漸《ようや》く本間|定五郎《さだごろう》と云う小拾人《こじゅうにん》が、御番所《ごばんしょ》から下部屋《しもべや》へ来る途中で発見した。そこで、すぐに御徒目付《おかちめつけ》へ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭|久下善兵衛《くげぜんべえ》、御徒目付土田|半右衛門《はんえもん》、菰田仁右衛門《こもだにえもん》、などが駈けつける。――殿中では忽ち、蜂《はち》の巣を破ったような騒動が出来《しゅったい》した。
それから、一同集って、手負《てお》いを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸く微《かすか》な声で、「細川越中」と答えた。続いて、「相手はどなたでござる」と尋ねたが、「上下《かみしも》を着た男」と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。創《きず》は「首構《くびがまえ》七寸程、左肩《ひだりかた》六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇また頭《かしら》に疵《きず》二三ヶ所、背中右の脇腹まで筋違《すじかい》に一尺五寸ばかり」である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本|阿波守《あわのかみ》は勿論、大目付|河野豊前守《こうのぶぜんのかみ》も立ち合って、一まず手負いを、焚火《たきび》の間《ま》へ舁《かつ》ぎこんだ。そうしてそのまわりを小屏風《こびょうぶ》で囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て介抱《かいほう》した。中でも松平|兵部少輔《ひょうぶしょうゆう》は、ここへ舁《かつ》ぎこむ途中から、最も親切に劬《いたわ》ったので、わき眼にも、情誼の篤《あつ》さが忍ばれたそうである。
その間に、一方では老中《ろうじゅう》若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た大手先《おおてさき》の大小名の家来《けらい》は、驚破《すわ》、殿中に椿事《ちんじ》があったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、海嘯《つなみ》のように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御徒目付《おかちめつけ》、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃傷《にんじょう》の相手を探して歩いたが、どうしても、その「上下《かみしも》を着た男」を見つける事が出来なかったからである。
すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって宝井宗賀《たからいそうが》と云う御坊主《ごぼうず》のために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと焚火《たきび》の間《ま》の近くの厠《かわや》の中を見ると、鬢《びん》の毛をかき乱した男が一人、影のように蹲《うずくま》っている。うす暗いので、はっきりわか
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