衛門は、それを認めようとしなかった。……
 彼は、飽《あ》くまでも、臣節を尽そうとした。が、苦諫の効がない事は、既に苦い経験を嘗《な》めている。そこで、彼は、今まで胸中に秘していた、最後の手段に訴える覚悟をした。最後の手段と云うのは、ほかでもない。修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。――
 何よりもまず、「家」である。(林右衛門はこう思った。)当主は「家」の前に、犠牲にしなければならない。ことに、板倉本家は、乃祖《だいそ》板倉四郎左衛門|勝重《かつしげ》以来、未嘗《いまだかつて》、瑕瑾《かきん》を受けた事のない名家である。二代又左衛門|重宗《しげむね》が、父の跡をうけて、所司代《しょしだい》として令聞《れいぶん》があったのは、数えるまでもない。その弟の主水重昌《もんどしげまさ》は、慶長十九年大阪冬の陣の和が媾《こう》ぜられた時に、判元見届《はんもとみとどけ》の重任を辱《かたじけな》くしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては西国《さいごく》の軍に将として、将軍家|御名代《ごみょうだい》の旗を、天草《あまくさ》征伐の陣中に飜《ひるがえ》した。その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があったならば、どうしよう。臣子の分として、九原《きゅうげん》の下《もと》、板倉家|累代《るいだい》の父祖に見《まみ》ゆべき顔《かんばせ》は、どこにもない。
 こう思った林右衛門は、私《ひそか》に一族の中《うち》を物色した。すると幸い、当時若年寄を勤めている板倉|佐渡守《さどのかみ》には、部屋住《へやずみ》の子息が三人ある。その子息の一人を跡目《あとめ》にして、養子願さえすれば、公辺《こうへん》の首尾は、どうにでもなろう。もっともこれは、事件の性質上修理や修理の内室には、密々で行わなければならない。彼は、ここまで思案をめぐらした時に、始めて、明るみへ出たような心もちがした。そうして、それと同時に今までに覚えなかったある悲しみが、おのずからその心もちを曇らせようとするのが、感じられた。「皆御家のためじゃ。」――そう云う彼の決心の中には、彼自身|朧《おぼろ》げにしか意識しない、何ものかを弁護しようとするある努力が、月の暈《かさ》のようにそれとなく、つきまとっていたからである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 病弱な修
前へ 次へ
全17ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング