が、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、唖《おし》のように口をつぐんで、じっと襖障子《ふすましょうじ》を見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。
 所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。
「先達《せんだって》、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は覚束《おぼつか》ないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」
 宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――
「御尤《ごもっと》もでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも……」
「いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。」
 修理、こう云って、苦々《にがにが》しげに、微笑した。
「さようでもございますまい。」
 宇左衛門は、傷《いたま》しそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる容子《ようす》もない。
「さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、」修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを量《はか》るように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様(吉宗)へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城《とじょう》させてはくれまいか。」
 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。
「それも、たった一度じゃ。」
「恐れながら、その儀ばかりは。」
「いかぬか。」
 二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。
「佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。」
 ほどを経て、修理が云った。
「登城を許せば、その方が、一門衆の不興《ふきょう》をうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、家来《けらい》にも見離された乱心者じゃ。」
 そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえ
前へ 次へ
全17ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング