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 縛り首にしろと云う命が出た事は、直《ただち》に腹心の近習《きんじゅ》から、林右衛門に伝えられた。
「よいわ。この上は、林右衛門も意地ずくじゃ。手を拱《こまぬ》いて縛り首もうたれまい。」
 彼は昂然として、こう云った。そうして、今まで彼につきまとっていた得体《えたい》の知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。もう修理は、彼にとって、主人ではない。その修理を憎むのに、何の憚《はばか》る所があろう。――彼の心の明るくなったのは、無意識ながら、全く彼がこう云う論理を、刹那《せつな》の間に認めたからである。
 そこで、彼は、妻子家来を引き具して、白昼、修理の屋敷を立ち退《の》いた。作法《さほう》通り、立ち退き先の所書きは、座敷の壁に貼《は》ってある。槍《やり》も、林右衛門自ら、小腋《こわき》にして、先に立った。武具を担《にな》ったり、足弱を扶《たす》けたりしている若党|草履《ぞうり》取を加えても、一行の人数《にんず》は、漸く十人にすぎない。それが、とり乱した気色もなく、つれ立って、門を出た。
 延享《えんきょう》四年三月の末である。門の外では、生暖《なまあたたか》い風が、桜の花と砂埃《すなほこり》とを、一つに武者窓へふきつけている。林右衛門は、その風の中に立って、もう一応、往来の右左を見廻した。そうして、それから槍で、一同に左へ行けと相図をした。

     二 田中宇左衛門

 林右衛門《りんえもん》の立ち退《の》いた後は、田中宇左衛門が代って、家老を勤めた。彼は乳人《めのと》をしていた関係上、修理《しゅり》を見る眼が、自《おのずか》らほかの家来とはちがっている。彼は親のような心もちで、修理の逆上《ぎゃくじょう》をいたわった。修理もまた、彼にだけは、比較的従順に振舞ったらしい。そこで、主従の関係は、林右衛門のいた時から見ると、遥に滑《なめらか》になって来た。
 宇左衛門は、修理の発作《ほっさ》が、夏が来ると共に、漸く怠《おこた》り出したのを喜んだ。彼も万一修理が殿中で無礼を働きはしないかと云う事を、惧《おそ》れない訳ではない。が、林右衛門は、それを「家」に関《かかわ》る大事として、惧れた。併し、彼は、それ
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