れえ》な陰徳は積んで置き度《て》えとね、まあ、私《わつち》なんぞは思つてゐやすのさ。」
「さうか。さう聞きや無理は無えの。いや、鼠小僧と云ふ野郎も、改代町《かいだいまち》の裸松《はだかまつ》が贔屓《ひいき》になつてくれようとは、夢にも思つちや居無えだらう。思へば冥加《みやうが》な盗つ人だ。」
 色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、相手に猪口を返しながら、思ひの外しんみりとかう云つたが、やがて何か思ひついたらしく、大様に膝を進めると、急に晴々した微笑を浮べて、
「ぢや聞きねえ。おれもその鼠小僧ぢや、とんだ御茶番を見た事があつての、今でも思ひ出すたんびに、腹の皮がよれてなら無《ね》えのよ。」
 親分と呼ばれた男は、かう云ふ前置きを聞かせてから、又悠々と煙管《きせる》を啣《くは》へて、夕日の中に消えて行く煙草の煙の輪と一しよに、次のやうな話をし始めた。

       二

 丁度今から三年前、おれが盆茣蓙《ぼんござ》の上の達《た》て引《ひ》きから、江戸を売つた時の事だ。
 東海道にやちつと差しがあつて、路は悪いが甲州街道を身延《みのぶ》まで出にやなら無えから、忘れもし無え、極月《ごくげつ》の十
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