男を呼びかける時にも、始終親分と云ふ名を用ひてゐた。が、年輩は彼是《かれこれ》同じ位らしく、それだけ又世間の親分子分よりも、打《う》ち融《と》けた交情が通つてゐる事は、互に差しつ抑へつする盃の間にも明らかだつた。
初秋の日暮とは云ひながら、向うに見える唐津《からつ》様の海鼠壁《なまこかべ》には、まだ赤々と入日がさして、その日を浴びた一株の柳が、こんもりと葉かげを蒸してゐるのも、去つて間がない残暑の思ひ出を新しくするのに十分だつた。だからこの船宿の表二階にも、葭戸《よしど》こそもう唐紙《からかみ》に変つてゐたが、江戸に未練の残つてゐる夏は、手すりに下つてゐる伊予簾《いよすだれ》や、何時からか床に掛け残された墨絵の滝の掛物や、或は又二人の間に並べてある膳の水貝や洗ひなどに、まざまざと尽きない名残りを示してゐた。実際往来を一つ隔《へだ》ててゐる掘割の明るい水の上から、時たま此処に流れて来るそよ風も、微醺《びくん》を帯びた二人の男には、刷毛先《はけさき》を少し左へ曲げた水髪の鬢《びん》を吹かれる度に、涼しいとは感じられるにした所が、毛頭秋らしいうそ寒さを覚えさせるやうな事はないのである。殊に
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