部落の家々から出て来た人の姿が、黒々と何人も立ち並んでいた。のみならずその人影は、剣を下げた彼を見ると、誰からともなく騒ぎ立って、「素戔嗚だ。素戔嗚だ。」と呼び交《かわ》す声が、たちまち高くなり始めた。彼はそう云う声を浴びて、しばらくはぼんやり佇《たたず》んで居た。また実際それよりほかに、何の分別もつかないほど、殺気立った彼の心の中《うち》には、気も狂いそうな混乱が、益々烈しくなって居たのであった。
その内に往来の人影は、見る見る数を加え出した。と同時に騒《さわ》がしい叫び声も、いつか憎悪を孕《はら》んで居る険悪な調子を帯び始めた。
「火つけを殺せ。」
「盗人《ぬすびと》を殺せ。」
「素戔嗚を殺せ。」
二十二
この時部落の後《うしろ》にある、草山《くさやま》の楡《にれ》の木の下には、髯《ひげ》の長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。物静な春の夜《よ》は、藪木《やぶき》の花のかすかな※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を柔かく靄《もや》に包んだまま、ここでもただ梟《ふくろう》の声が、ちょうど山その物の吐息《といき》のように、一天の疎《まばら》な星の光を時々曇らせているばかりであった。
が、その内に眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙が、風の断《た》えた中空《なかぞら》へ一すじまっ直《すぐ》に上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇る火の粉を眺めても、やはり膝を抱きながら、気楽そうに小声の歌を唱って、一向驚くらしい気色《けしき》も見せなかった。しかし間もなく部落からは、まるで蜂《はち》の巣を壊《こわ》したような人どよめきの音が聞えて来た。のみならずその音は次第に高くざわめき立って、とうとう戦《たたかい》でも起ったかと思う、烈しい喊声《かんせい》さえ伝わり出した。これにはさすがの老人も、いささか意外な気がしたと見えて、白い眉《まゆ》をひそめながら、おもむろに腰を擡《もた》げると、両手を耳へ当てがって、時ならない部落の騒動をじっと聞き澄まそうとするらしかった。
「はてな。剣の音なぞもするようだが。」
老人はこう呟《つぶや》きながら、しばらくはそこに伸び上って、絶えず金粉を煽っている火事の煙に見入っていた。
するとほどなく部落から、逃げて来たらしい七八人の男女《なんにょ》が、喘《あえ》ぎ喘ぎ草山へ上って
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