くは入日《いりひ》の光に煙った河原蓬《かわらよもぎ》の中へ佇《たたず》みながら、艶々《つやつや》と水をかぶっている黒馬の毛並《けなみ》を眺めていた。が、追い追いその沈黙が、妙に苦しくなり始めたので、とり敢えず話題を開拓すべく、目前の馬を指さしながら、
「好い馬だな。持主は誰だい。」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼を挙げて、
「私です。」と返事をした。
「そうか。そりゃ――」
 彼は感嘆の言葉を呑みこむと、また元の通り口を噤《つぐ》んでしまった。が、さすがに若者は素知《そし》らぬ顔も出来ないと見えて、
「先達《せんだって》あの勾玉《まがたま》を御預りしましたが――」と、ためらい勝ちに切り出した。
「うん、渡してくれたかい。」
 彼の眼は子供のように、純粋な感情を湛《たた》えていた、若者は彼と眼を合わすと、慌《あわ》ててその視線を避けながら、故《ことさら》に馬の足掻《あが》くのを叱って、
「ええ、渡しました。」
「そうか。それでおれも安心した。」
「ですが――」
「ですが? 何だい。」
「急には御返事が出来ないと云う事でした。」
「何、急がなくっても好い。」
 彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、夕霞《ゆうがすみ》のたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている雲雀《ひばり》も、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は頭《かしら》を挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。
「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと? 嘘をつけ。それなら何故《なぜ》そんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」

        十八

 素戔嗚《すさのお》はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行《はや》り出した。それは醜《みにく》い山鴉《やまがらす》が美しい白鳥《はくちょう》に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂《わら》い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。
 しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、
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