も見られないであろう。しかも彼等の頭の上には、――ラマ教の寺院の塔の上にはかすかに蒼ざめた太陽が一つ、ラッサを取り巻いた峯々の雪をぼんやりかがやかせているのである。
僕は少くとも数年はラッサに住もうと思っている。それには怠惰の美風のほかにも、多少は妻の容色《ようしょく》に心を惹《ひ》かれているのかも知れない。妻は名はダアワといい、近隣でも美人と評されている。背は人並みよりは高いくらいであろう。顔はダアワという名前の通り、(ダアワは月の意味である。)垢《あか》の下にも色の白い、始終糸のように目を細めた、妙にもの優しい女である。夫の僕とも四人あることは前にもちょっと書いて置いた。第一の夫は行商人《ぎょうしょうにん》、第二の夫は歩兵《ほへい》の伍長《ごちょう》、第三の夫はラマ教の仏画師《ぶつがし》、第四の夫は僕である。僕もまたこの頃は無職業ではない。とにかく器用を看板とした一かどの理髪師《りはつし》になり了《おお》せている。
謹厳なる君は僕のように、一妻多夫に甘んずるものを軽蔑《けいべつ》せずにはいられないであろう。が、僕にいわせれば、あらゆる結婚の形式はただ便宜《べんぎ》に拠《よ》ったものである。一夫一妻の基督《キリスト》教徒は必ずしも異教徒たる僕等よりも道徳の高い人間ではない。のみならず事実上の一妻多夫は事実上の一夫多妻と共に、いかなる国にもあるはずである。実際また一夫一妻はチベットにも全然ない訣《わけ》ではない。ただルクソオ・ミンズの名のもとに(ルクソオ・ミンズは破格の意味である。)軽蔑されているだけである。ちょうど僕等の一妻多夫も文明国の軽蔑を買っているように。
僕は三人の夫と共に、一人の妻を共有することに少しも不便を感じていない。他の三人もまた同様であろう。妻はこの四人の夫をいずれも過不足なしに愛している。僕はまだ日本にいた時、やはり三人の檀那《だんな》と共に、一人の芸者を共有したことがあった。その芸者に比《くら》べれば、ダアワは何という女菩薩《にょぼさつ》であろう。現に仏画師はダアワのことを蓮華《れんげ》夫人と渾名《あだな》している。実際川ばたの枝垂《しだ》れ柳《やなぎ》の下《した》に乳《ち》のみ児を抱《だ》いている妻の姿は円光《えんこう》を負っているといわなければならぬ。子供はもう六歳をかしらに、乳のみ児とも三人出来ている。勿論誰はどの夫を父にするなど
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