後、彼は古本屋の女主人にもう「ツアラトストラ」を示してゐた。
「一円六十銭、――御愛嬌に一円五十銭にして置きませう。」
信輔はたつた七十銭にこの本を売つたことを思ひ出した。が、やつと売り価の二倍、――一円四十銭に価切つた末、とうとうもう一度買ふことにした。雪の夜の往来は家々も電車も何か微妙に静かだつた。彼はかう言ふ往来をはるばる本郷へ帰る途中、絶えず彼の懐ろの中に鋼鉄色の表紙をした「ツアラトストラ」を感じてゐた。しかし又同時に口の中には何度も彼自身を嘲笑してゐた。……
六 友だち
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出来なかつた。たとひどう言ふ君子にもせよ、素行以外に取り柄のない青年は彼には用のない行人だつた。いや、寧ろ顔を見る度に揶揄せずにはゐられぬ道化者だつた。それは操行点六点の彼には当然の態度に違ひなかつた。彼は中学から高等学校、高等学校から大学と幾つかの学校を通りぬける間に絶えず彼等を嘲笑した。勿論彼等の或ものは彼の嘲笑を憤つた。しかし又彼等の或ものは彼の嘲笑を感ずる為にも余りに模範的君子だつた。彼は「厭な奴」と呼ばれることには常に多少の愉快を感じ
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