出来なかつた。彼のかう言ふ困難をどうにかかうにか脱したのは第一に図書館のおかげだつた。第二に貸本屋のおかげだつた。第三に吝嗇の譏さへ招いだ彼の節倹のおかげだつた。彼ははつきりと覚えてゐる――大溝に面した貸本屋を、人の好い貸本屋の婆さんを、婆さんの内職にする花簪を。婆さんはやつと小学へ入つた「坊ちやん」の無邪気を信じてゐた。その「坊ちやん」はいつの間にか本を探がす風を装ひながら、偸み読みをすることを発明してゐた。彼は又はつきりと覚えてゐる。――古本屋ばかりごみごみ並んだ二十年前の神保町通りを、その古本屋の屋根の上に日の光を受けた九段坂の傾斜を。勿論当時の神保町通りは電車も馬車も通じなかつた。彼は――十二歳の小学生は弁当やノオト・ブツクを小脇にしたまま、大橋図書館へ通ふ為に何度もこの通りを往復した。道のりは往復一里半だつた。大橋図書館から帝国図書館へ。彼は帝国図書館の与へた第一の感銘をも覚えてゐる。――高い天井に対する恐怖を、大きい窓に対する恐怖を、無数の椅子を埋め尽した無数の人々に対する恐怖を。が、恐怖は幸ひにも二三度通ふうちに消滅した。彼は忽ち閲覧室に、鉄の階段に、カタロオグの箱に、地
前へ 次へ
全27ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング