いことには彼自身憤らずにはいられなかった。現にこう言う君子の一人――或高等学校の文科の生徒はリヴィングストンの崇拝者だった。同じ寄宿舎にいた信輔は或時彼に真事《まこと》しやかにバイロンも亦リヴィングストン伝を読み、泣いてやまなかったと言う出たらめを話した。爾来《じらい》二十年を閲《けみ》した今日、このリヴィングストンの崇拝者は或|基督《キリスト》教会の機関雑誌に不相変《あいかわらず》リヴィングストンを讃美《さんび》している。のみならず彼の文章はこう言う一行に始まっている。――「悪魔的詩人バイロンさえ、リヴィングストンの伝記を読んで涙を流したと言うことは何を我々に教えるであろうか?」!
 信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。たとい君子ではないにもせよ、智的|貪慾《どんよく》を知らない青年はやはり彼には路傍の人だった。彼は彼の友だちに優しい感情を求めなかった。彼の友だちは青年らしい心臓を持たぬ青年でも好かった。いや、所謂《いわゆる》親友は寧ろ彼には恐怖だった。その代りに彼の友だちは頭脳を持たなければならなかった。頭脳を、――がっしりと出来上った頭脳を。彼はどう言う美少年よりもこう言う頭脳の持ち主を愛した。同時に又どう言う君子よりもこう言う頭脳の持ち主を憎んだ。実際彼の友情はいつも幾分か愛の中に憎悪を孕《はら》んだ情熱だった。信輔は今日もこの情熱以外に友情のないことを信じている。少くともこの情熱以外に Herr und Knecht の臭味を帯びない友情のないことを信じている。況《いわ》んや当時の友だちは一面には相容《あいい》れぬ死敵だった。彼は彼の頭脳を武器に、絶えず彼等と格闘した。ホイットマン、自由詩、創造的進化、――戦場は殆《ほとん》ど到《いた》る所にあった。彼はそれ等の戦場に彼の友だちを打ち倒したり、彼の友だちに打ち倒されたりした。この精神的格闘は何よりも殺戮《さつりく》の歓喜の為に行われたものに違いなかった。しかしおのずからその間に新しい観念や新しい美の姿を現したことも事実だった。如何に午前三時の蝋燭《ろうそく》の炎は彼等の論戦を照らしていたか、如何に又武者小路実篤の作品は彼等の論戦を支配していたか、――信輔は鮮かに九月の或夜、何匹も蝋燭へ集って来た、大きい灯取虫《ひとりむし》を覚えている。灯取虫は深い闇《やみ》の中から突然きらびやかに生まれて来た。が、炎に触れるが早いか、嘘《うそ》のようにぱたぱたと死んで行った。これは何も今更のように珍しがる価のないことかも知れない。しかし信輔は今日もなおこの小事件を思い出す度に、――この不思議に美しい灯取虫の生死を思い出す度に、なぜか彼の心の底に多少の寂しさを感ずるのである。………
 信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。標準は只《ただ》それだけだった。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣《わけ》ではなかった。それは彼の友だちと彼との間を截断《せつだん》する社会的階級の差別だった。信輔は彼と育ちの似寄った中流階級の青年には何のこだわりも感じなかった。が、纔《わず》かに彼の知った上流階級の青年には、――時には中流上層階級の青年にも妙に他人らしい憎悪を感じた。彼等の或ものは怠惰だった。彼等の或ものは臆病《おくびょう》だった。又彼等の或ものは官能主義の奴隷だった。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の為ばかりではなかった。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの為だった。尤《もっと》も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでいた。その為に又下流階級に、――彼等の社会的|対蹠点《たいせきてん》に病的な※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しょうこう》を感じていた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟《ひっきょう》役には立たなかった。この「何か」は握手する前にいつも針のように彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等学校の生徒だった彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖《がけ》の上に佇《たたず》んでいた。目の下はすぐに荒磯だった。彼等は「潜り」の少年たちの為に何枚かの銅貨を投げてやった。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳《おど》りこんだ。しかし一人|海女《あま》だけは崖の下に焚《た》いた芥火《あくたび》の前に笑って眺めているばかりだった。
「今度はあいつも飛びこませてやる。」
 彼の友だちは一枚の銅貨を巻煙草《まきたばこ》の箱の銀紙に包んだ。それから体を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまっ先に海へ飛びこんでいた。信輔は未《いま》だにありありと口もとに残酷
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