輔には憎まずにはいられぬ運命だった。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜《びん》を軽蔑《けいべつ》した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知っている彼の友だちを羨望《せんぼう》した。現に小学へはいった頃、年の若い彼の叔母は年始か何かに来ているうちに乳の張ったのを苦にし出した。乳は真鍮《しんちゅう》の嗽《うが》い茶碗《ぢゃわん》へいくら絞っても出て来なかった。叔母は眉《まゆ》をひそめたまま、半ば彼をからかうように「信ちゃんに吸って貰おうか?」と言った。けれども牛乳に育った彼は勿論《もちろん》吸いかたを知る筈《はず》はなかった。叔母はとうとう隣の子に――穴蔵大工の女の子に固い乳房を吸って貰った。乳房は盛り上った半球の上へ青い静脈をかがっていた。はにかみ易い信輔はたとい吸うことは出来たにもせよ、到底叔母の乳などを吸うことは出来ないのに違いなかった。が、それにも関らずやはり隣の女の子を憎んだ。同時に又隣の女の子に乳を吸わせる叔母を憎んだ。この小事件は彼の記憶に重苦しい嫉妬《しっと》ばかり残している。が、或はその外にも彼の Vita sexualis は当時にはじまっていたのかも知れない。………
信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥じた。これは彼の秘密だった。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だった。この秘密は又当時の彼には或迷信をも伴っていた。彼は只《ただ》頭ばかり大きい、無気味なほど痩《や》せた少年だった。のみならずはにかみ易い上にも、磨《と》ぎ澄ました肉屋の庖丁《ほうちょう》にさえ動悸《どうき》の高まる少年だった。その点は――殊にその点は伏見鳥羽の役に銃火をくぐった、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違いなかった。彼は一体何歳からか、又どう言う論理からか、この父に似つかぬことを牛乳の為と確信していた。いや、体の弱いことをも牛乳の為と確信していた。若《も》し牛乳の為とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友だちは彼の秘密を看破してしまうのに違いなかった。彼はその為にどう言う時でも彼の友だちの挑戦に応じた。挑戦は勿論一つではなかった。或時はお竹倉の大溝《おおどぶ》を棹《さお》も使わずに飛ぶことだった。或時は回向院《えこういん》の大銀杏《おおいちょう》へ梯子《はしご》もかけずに登ることだった。或時は又彼等の一人と殴り合いの喧嘩《けんか》をすることだった。信
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