の》に限つたことである。――さう僕は確信してゐた。
 すると大《だい》地震のあつた翌日、大彦《だいひこ》の野口《のぐち》君に遇《あ》つた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は気楽さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端《たばた》の空さへ濁《にご》らせてゐる。野口君もけふは元禄袖《げんろくそで》の紗《しや》の羽織などは着用してゐない。何《なん》だか火事|頭巾《づきん》の如きものに雲龍《うんりゆう》の刺《さし》つ子《こ》と云ふ出立《いでた》ちである。僕はその時話の次手《ついで》にもう続続《ぞくぞく》罹災民《りさいみん》は東京を去つてゐると云ふ話をした。
「そりやあなた、お国者《くにもの》はみんな帰つてしまふでせう。――」
 野口君は言下《ごんか》にかう云つた。
「その代りに江戸《えど》つ児《こ》だけは残りますよ。」
 僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。それは君の服装の為か、空を濁らせた煙の為か、或は又僕自身も大地震に悸《おび》えてゐた為か、その辺の消息《せうそく》ははつきりしない。しかし兎《と》に角《かく》その瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい。

     五 廃都東京

 加藤武雄《かとうたけを》様。東京を弔《とむら》ふの文を作れと云ふ仰《あふ》せは正に拝承しました。又おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書かうとなると、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙《そうばう》の際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙で御免《ごめん》を蒙《かうむ》りたいと思ひます。
 応仁《おうにん》の乱か何かに遇《あ》つた人の歌に、「汝《な》も知るや都は野べの夕雲雀《ゆふひばり》揚《あが》るを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸《まる》の内《うち》の焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。水木京太《みづききやうた》氏などは銀座《ぎんざ》を通ると、ぽろぽろ涙が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな気もちなしにと云ふ断《ことわ》り書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」と云ふ気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。その外《ほか》不謹慎の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事実であります。
「落つる涙は」と云ふ気のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した為であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣《わけ》ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛惜《あいじやく》を持たずにゐました。と云つても僕を江戸趣味の徒《と》と速断《そくだん》してはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依依恋恋《いいれんれん》とする為には余りに散文的に出来てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植《うわ》つてゐた、汁粉屋《しるこや》の代りにカフエの殖《ふ》えない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽《むぎわらばう》はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失《う》せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処《どこ》か折り合へない感じを与へられてゐました。それが今|焦土《せうど》に変つたのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思ひ出しました。が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺《へん》はぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから。つまり一番確かなのは「落つる涙は」と云ふ気のしたことです。僕の東京を弔《とむら》ふ気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?
 何《なん》だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか悪《あ》しからず御赦《おゆる》し下さい。僕はこの手紙を書いて了《しま》ふと、僕の家に充満した焼け出されの親戚《しんせき》故旧《こきう》と玄米の夕飯《ゆふめし》を食ふのです。それから堤燈《ちやうちん》に蝋燭《らふそく》をともして、夜警《やけい》の詰所《つめしよ》へ出かけるのです。以上。

     六 震災の文芸に与ふる影響

 大《だい》地震の災害は戦争や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地《だいち》の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生観を一変
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