ら》の衣《い》をバスケツトに収め、僕は漱石《そうせき》先生の書一軸を風呂敷《ふろしき》に包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾|素《もと》より窮《きは》まりなしとは云へ、存外《ぞんぐわい》又あきらめることも容易なるが如し。夜《よ》に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能《あた》はず。円月堂、僕の代りに徹宵《てつせう》警戒の任に当る。脇差《わきざし》を横たへ、木刀《ぼくたう》を提《ひつさ》げたる状、彼自身|宛然《ゑんぜん》たる○○○○なり。
三 大震に際せる感想
地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記《しる》してやむべし。幸ひに孟浪《まんらん》を咎《とが》むること勿《なか》れ。
この大震を天譴《てんけん》と思へとは渋沢《しぶさは》子爵の云ふところなり。誰か自《みづか》ら省れば脚に疵《きず》なきものあらんや。脚に疵あるは天譴《てんけん》を蒙《かうむ》る所以《ゆゑん》、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以《ゆゑん》なるべし、されど我は妻子《さいし》を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又|所謂《いはゆる》天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若《し》かざるべし。否《いな》、天の蒼生《さうせい》に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分《わか》たず。猛火は仁人《じんじん》と溌皮《はつぴ》とを分たず。自然の眼には人間も蚤《のみ》も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中《うち》なる自然も、人間の中なる人間に愛憐《あいれん》を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷《ひびや》公園の池に遊べる鶴と家鴨《あひる》とを食《くら》はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食《くら》ひしやも知るべからず。
日比谷《ひびや》公園の池に遊べる鶴と家鴨《あひる》とを食《くら》はしめし境遇の惨《さん》は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食《くら》ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中《うち》なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂《た》るることなければなり。鶴と家鴨とを食《くら》へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹《ひ》いては一切人間を禽獣《きんじう》と選ぶことなしと云ふは、畢竟《ひつきやう》意気地《いくぢ》なきセンテイメンタリズムのみ。
自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑《けいべつ》すべからず。人間たる尊厳を抛棄《はうき》すべからず。人肉を食《くら》はずんば生き難しとせよ。汝《なんぢ》とともに人肉を食《くら》はん。人肉を食《くら》うて腹|鼓然《こぜん》たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇《ちうちよ》することなかれ。その後《のち》に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
誰か自《みづか》ら省れば脚に疵《きず》なきものあらんや。僕の如きは両脚《りやうきやく》の疵、殆《ほとん》ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴《てんけん》なりと思ふ能《あた》はず。況《いは》んや天譴《てんけん》の不公平なるにも呪詛《じゆそ》の声を挙ぐる能はず。唯|姉弟《してい》の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已《や》み難き遺憾《ゐかん》を感ずるのみ。我等は皆|歎《なげ》くべし、歎きたりと雖《いへど》も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
同胞よ。面皮《めんぴ》を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿《なか》れ。僕のこの言《げん》を倣《な》す所以《ゆゑん》は、渋沢《しぶさは》子爵の一言《いちげん》より、滔滔《たうたう》と何《なん》でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷《どれい》となること勿《なか》れ。
四 東京人
東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未《いま》だ嘗《かつ》て愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。
元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介《やくかい》にもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩《も》れない。兎角《とかく》東京東京と難有《ありがた》さうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者《ゐなかも
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