の一生
[#ここから2段組]
徳川家康
急ぐべからず。
心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
怒《いかり》は敵と思へ。
勝つ事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身に至る。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。
[#改段]
大久保余所五郎
後《おく》るべからず。
心に望失なはば得意なりし時を思ひ出すべし。
卑屈は敵と思へ。
負くる事に安んじて勝つ事を知らざれば損其身に至る。
成すは成さざるより勝れり。
[#ここで段組終わり]
僕は思はず微笑した。この湖州|大久保余所五郎《おほくぼよそごらう》なるものは征夷大将軍徳川家康と処世訓の長短を比べてゐる。しかも彼の処世訓は不思議にも坊間に行はれる教科書の臭気を帯びてゐない。何処か彼自身の面接した人生の息吹きを漂はせてゐる。「心に望失はば得意なりし時を思ひ出すべし。」――情熱に富んだ才人の面かげはかう云ふ一行にも見えるやうである。僕は漫然とその次の「鎌倉漫筆」へ目を移した。漫然と――しかし僕の好奇心は忽《たちま》ち近来にない刺戟を感じた。まづ僕を喜ばせたものは歴史家を評した数行である。
「若《も》し徂徠《そらい》にして
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