を留めざるは、恐らくは此の辺の観察もあるに依るなるべし。されど作左はまた斯くの如く冷酷に看過する能はずして、以為《おも》へらく『いや/\仙千代丸都におきて、人の疑うけん[#「人の疑うけん」に傍点]事も詮なし。ただひとりある子、うしなはんも不便なり』と。直に母の大病に言《こと》よせて、永訣《えいけつ》のためにとて呼び還しぬ。蓋《けだ》し作左我が子の愛情もさることながら、おのが多年育て上げし公子が身危しと聴きては、其の痛傷の感いかで仙千代を念ふにも劣るべき。既に秀吉に与へし上は、今更これを取返さんやうも無けれど、其の儘都に置きては、不安の想ひに得堪へで、仙千代が身に先だちて、必ず家康に公子が事を訴へしなるべく、座上無道の秀吉を罵りし憤慨の豪気も察せられたり。家康も於義丸は兎も角、仙千代招還せんことは作左が老情を酌みて、喜びて許ししなるべく、母が大病とは円滑に聞こえて、否み難き好辞柄《かうじへい》なりけり。猛き作左も子さへ還らばと、斯くは穏便に言ひ做ししなるべし。腹黒き主人の注意もありなん乎。且つ夫《そ》れ仙千代と共に随ひ行きし勝千代が父は、彼の秀吉が覚よき石川伯耆守にして、徳川の家中には、兼ねてより、窃《ひそか》に其の二心を疑へる者さへありければ、作左は素より忠侃《ちうかん》一辺の男なれど、当時雑説紛々の折柄、伯耆守と共に子思ひの作左が心底も動かずやと、家中の噂にも上りしことあるべく、疚《やま》しからぬ腹を揣摩《しま》せられて、潔白を傷けんも口惜しと、さてこそ思へば待てぬ作左衛門、急に疑の種をば引き戻すに至りしなるべけれ。」
 これは本多作左衛門と共に秀吉に雌伏する家康を論じた「鬼作左」の中の一節である。諸君は今もなほ大久保湖州を明治の才人の一人に数へる僕の蒙を笑殺するであらうか? 笑殺するとしないとは勿論諸君の随意である。唯僕は前に挙げた「伝記私言数則」の中に、「天|自《みづか》ら言はず、人をして言はしむ、されど人の声は、必ずしも天の声と一致せず、人の褒貶毀誉《ほうへんきよ》は、数々《しばしば》天の公裁と齟齬《そご》す。人世尤も憐むべきは、生前天の声を聞かずして死に入るものと為す。後人《こうじん》は彼が為めに、天に代り死後の知己たらざるべからず」の語を読んだ時、我々の忘れてゐた湖州の為に愴然の感を深うした。僕の文章は何であるにしろ、厳粛なる天の声などを代弁しないことは
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