等の吹聴するやうに人間らしいかどうかは疑問である。彼等はいつも厳然とかう諸君に云ふであらう。――「英雄も勿論凡人ではない。が、神には生れない以上、やはり凡人たる半面をも具へてゐたことは確かである。すると我我の目の前に何の某と云ふ人物を立たせ、その何の某の英雄たることを認めさせる為には、凡人たらざる半面を指摘すると同時に凡人たる半面をも指摘してなければならぬ。在来の伝記の英雄に人間らしさの欠けてゐるのはかう云ふ用意の足りぬ為である。……」
 けれどもこれだけの用意さへすれば、果して彼等の云ふやうに、人間らしい英雄を示し得るであらうか? たとへば諸君の軽蔑する「漢楚軍談《かんそぐんだん》」を披《ひら》いて見るが好い。「漢楚軍談」の漢の高祖は秦の始皇の夢に入つたり、白帝の子たる大蛇を斬つたり、凡人ならざる半面を大いに示してゐるかと思へば、女楽を好んだり、士に傲《おご》つたり、凡人に劣らぬ半面をもやはり大いに示してゐる。しかし「漢楚軍談」の漢の高祖に王者の真面目《しんめんもく》を発見するものは三尺の童子ばかりと云はなければならぬ。もう一つ次手《ついで》に例を挙げれば、諸君の「漢楚軍談」よりも常に一層信用せぬ歴史、――新聞の記事を読んで見るが好い。新聞の記事の大臣も民意を体したり、憲政を擁護したり、凡人たらざる半面を大いに示してゐるかと思へば、※[#「言+墟のつくり」、第3水準2−88−74]をついたり、金を盗んだり、大凡下《だいぼんげ》たる半面さへやはり大に示してゐる。が、新聞の記事の大臣に英雄の真面目は少時問はず、凡人の真面目さへ発見するものは三尺の童子――ではないにもしろ、六尺の童子ばかりと云はなければならぬ。すると彼等の云ふやうに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘することは少しも英雄の英雄たる所以を明らかにしない道理である。彼等はこの道理にも頓着せず、神経衰弱に罹つたエホバのやうに彼等の所謂人間らしい英雄なるものを創造した。その結果はどうだつたか? 山積する彼等の伝記の中から我我の目の前に浮んで来るものは丁度両頭の蛇のやうに凡人たらざる半面と凡人たる半面とを左右へ出した、滑稽なる精神的怪物である。英雄崇拝者の英雄は英雄よりも寧ろ神であらう。モオラリストの英雄も余りに善玉でないとすれば、余りに悪玉であるかも知れない。しかし彼等の英雄は或統一を保つてゐる限り、人
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