轣Aコレラだ」と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒《はうき》で掃《は》き始めたさうである。勿論、先生の吐瀉《としや》したのは、豆と水とに祟《たた》られたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。
 コレラの小説では何があるか。紅葉《こうえふ》の「青葡萄《あをぶだう》」とかいふのが、多分、コレラの話だつたらう。La Motte といふ人の短篇に、日本のコレラを書いたのがある。何も際立《きはだ》つた事件はないが、魚河岸《うをがし》の暇になつたり、何かするところをなかなか器用に書いてある。
 僕はコレラでは死にたくはない。へどを吐《は》いたり下痢《げり》をしたりする不風流な往生《わうじやう》は厭《い》やである。シヨウペンハウエルがコレラを恐《こは》がつて、逃げて歩いたことを読んだ時は、甚だ彼に同情した。ことに依ると、彼の哲学よりも、もつと、同情したかも知れない。
 しかし、シヨウペンハウエル時代には、まだコレラは食物から伝染《でんせん》するといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難有《ありがた》さに、それをちやんと心得てゐるから、煮《に》たものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服《の》んだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三拝《さんぱい》九拝《きうはい》するがいい。

     十三 長崎

 菱形《ひしがた》の凧《たこ》。サント・モンタニの空に揚《あが》つた凧《たこ》。うらうらと幾つも漂《ただよ》つた凧。
 路ばたに商《あきな》ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照《ほて》るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕《つばめ》。
 丸山《まるやま》の廓《くるわ》の見返《みかへ》り柳。
 運河には石の眼鏡橋《めがねばし》。橋には往来《わうらい》の麦稈帽子《むぎわらばうし》。――忽ち泳《およ》いで来る家鴨《あひる》の一むれ。白白《しろじろ》と日に照つた家鴨の一むれ。
 南京寺《なんきんでら》の石段の蜥蜴《とかげ》。
 中華民国の旗。煙を揚げる英吉利《イギリス》の船。「港をよろふ山の若葉に光さし……」顱頂《
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