精神を重んずる所に逆説的にも潜んでゐると云ふ事実だけを指摘したいのである。

     九 「若し王者たりせば」

「我|若《も》し王者たりせば」と云ふ映画によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛国者に変じてゐる。それから又シヤロツト姫に対する純一無雑の恋人に変じてゐる。最後に市民の人気を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歴史上の人物はこの映画の中のヴイヨンのやうに何度も転身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は実にアメリカの生んだ映画だつた。
 僕はこの映画を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜《せいさう》を数へ、「蓋棺《がいくわん》の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獣化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香《かう》を焚かれるのは唯「幸福なる少数」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には[#「一面には」に傍点]愛国者兼「民衆の味かた」兼模範的恋人として香を焚かれてゐるではないか?
 しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」

     十 二人の紅毛画家

 ピカソはいつも城を攻めてゐる。ジアン・ダアクでなければ破れない城を。彼は或はこの城の破れないことを知つてゐるかも知れない。が、ひとり石火矢《いしびや》の下に剛情にもひとり城を攻めてゐる。かう云ふピカソを去つてマテイスを見る時、何か気易さを感じるのは必しも僕一人ではあるまい。マテイスは海にヨツトを走らせてゐる。武器の音や煙硝《えんせう》の匂はそこからは少しも起つて来ない。唯桃色の白の縞《しま》のある三角の帆だけ風を孕《はら》んである。僕は偶然この二人の画を見、ピカソに同情を感ずると同時にマテイスには親しみや羨ましさを感じた。マテイスは僕等|素人《しろうと》の目にもリアリズムに叩きこんだ腕を持つてゐる。その又リアリズムに叩きこんだ腕はマテイスの画に精彩を与へてゐるものの、時々画面の装飾的効果に多少の破綻《はたん》を生じてゐるかも知れない。若しどちらをとるかと言へば、僕
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