ェゐる」と言つた、逞《たくま》しいイブセンの心もちはヨハネの心もちに近かつたであらう。そこに茨《いばら》に近い嫉妬よりも寧《むし》ろ薔薇《ばら》の花に似た理解の美しさを感じるばかりである。かう云ふ年少のクリストのどの位天才的だつたかは言はずとも善い。しかしヨハネもこの時にはやはり最も天才的だつたであらう。丁度丈の高いヨルダンの蘆のゆららかに星を撫でてゐるやうに。……
11[#「11」は縦中横] 或時のクリスト
クリストは十字架にかかる前に彼の弟子たちの足を洗つてやつた。「ソロモンよりも大いなるもの」を以てみづから任じてゐたクリストのかう云ふ謙遜《けんそん》を示したのは我々を動かさずには措《お》かないのである。それは彼の弟子たちに教訓を与へる為ではない。彼も彼等と変らない「人の子」だつたことを感じた為におのづからかう云ふ所業をしたのであらう。それはヨハネのクリストを見て「神の仔羊を観よ」と言つたのよりも荘厳である。平和に至る道は何びともクリストよりもマリアに学ばなければならぬ。マリアは唯この現世を忍耐して歩いて行つた女人である。(カトリツク教はクリストに達する為にマリアを通じるのを常としてゐる。それは必しも偶然ではない。直《ただ》ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危険である。)或はクリストの母だつたと云ふ以外に所謂《いはゆる》ニウス・ヴアリユウのない女人である。弟子たちの足さへ洗つてやつたクリストは勿論マリアの足もとにひれ伏したかつたことであらう。しかし彼の弟子たちはこの時も彼を理解しなかつた。
「お前たちはもう綺麗《きれい》になつた。」
それは彼の謙遜の中に死後に勝ち誇る彼の希望(或は彼の虚栄心)の一つに溶け合つた言葉である。クリストは事実上逆説的にも正にこの瞬間には彼等に劣つてゐると同時に彼等に百倍するほどまさつてゐた。
12[#「12」は縦中横] 最大の矛盾
クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも関らず彼自身を理解出来なかつたことである。彼は庭鳥《にはとり》の啼《な》く前にペテロさへ三度クリストを知らないと云ふことを承知してゐた。彼の言葉はその外にも如何に我々人間の弱いかと云ふことを教へてゐる。しかも彼は彼自身もやはり弱いことを忘れてゐた。クリストの一生を背景にしたクリスト教を理解することはこの為
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