潟Xトは最速度の生活者である。仏陀は成道《じやうどう》する為に何年かを雪山の中に暮らした。しかしクリストは洗礼を受けると、四十日の断食の後、忽《たちま》ち古代のジヤアナリストになつた。彼はみづから燃え尽きようとする一本の蝋燭《らふそく》にそつくりである。彼の所業やジヤアナリズムは即ちこの蝋燭の蝋涙《らふるゐ》だつた。

     6 ジヤアナリズム至上主義者

 クリストの最も愛したのは目ざましい彼のジャアナリズムである。若し他のものを愛したとすれば、彼は大きい無花果《いちじゆく》のかげに年とつた予言者になつてゐたであらう。平和はその時にはクリストの上にも下つて来たのに相違ない。彼はもうその時には丁度古代の賢人のやうにあらゆる妥協[#「妥協」に傍点]のもとに微笑してゐたであらう。しかし運命は幸か不幸か彼にかう云ふ安らかな晩年を与へてくれなかつた。それは受難の名を与へられてゐても、正に彼の悲劇だつたであらう。けれどもクリストはこの悲劇の為に永久に若々しい顔をしてゐるのである。

     7 クリストの財布

 かう云ふクリストの収入は恐らくはジヤアナリズムによつてゐたのであらう。が、彼は「明日のことを考へるな」と云ふほどのボヘミアンだつた。ボヘミアン?――我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼は兎も角も彼の天才の飛躍するまま、明日のことを顧みなかつた。「ヨブ記」を書いたジヤアナリストは或は彼よりも雄大だつたかも知れない。しかし彼は「ヨブ記」にない優しさを忍びこます手腕を持つてゐた。この手腕は少からず彼の収入を扶《たす》けたことであらう。彼のジヤアナリズムは十字架にかかる前に正に最高の市価を占めてゐた。しかし彼の死後に比べれば、――現にアメリカ聖書会社は神聖にも年々に利益を占めてゐる。……

     8 或時のマリア

 クリストはもう十二歳の時に彼の天才を示してゐた。彼の伝記作者の一人、――ルカの語る所によれば、「其子イエルサレムに留りぬ。然るにヨセフと母これを知らず、三日の後|殿《みや》にて遇《あ》ふ。彼教師の中に坐し、聴き且《かつ》問ひゐたり。聞者《きくもの》其|知慧《さとき》と其|応対《こたへ》とを奇《あや》しとせり。」それは論理学を学ばずに論理に長じた学生時代のスウイフトと同じことである。かう云ふ早熟の天才の例は勿論世界中
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