めし駿走らしかつたであらう。さう言へば正宗白鳥《まさむねはくてう》氏も昔は白塚《はくちよう》と号してゐたかと思ふ。これは僕の記憶違ひかも知れない。が、若し違つてゐないとすれば、この号も兎《と》に角《かく》年少時代の正宗氏を想はせるのに足るものであらう。僕は昔の文人たちの雅号を幾つも持つてゐたのは必《かならず》しも道楽に拵《こしら》へたのではない。彼等の趣味の進歩に応じておのづから出来たものと思つてゐる。(同前)
五 シルレルの頭蓋骨
シルレルの遺骸《ゐがい》は彼の歿年、――千八百五年以来、ちやんとワイマアルの大公爵家の霊廟《れいべう》の中に収められてゐた。が、二十年ばかりたつた後《のち》、その霊廟を再建《さいこん》する際に頭蓋骨《づがいこつ》だけゲエテに贈ることになつた。ゲエテは彼の机の上にこの旧友の頭蓋骨を置き、「シルレル」と題する詩を作つた。そればかりではない。エエベルラインなどは御苦労にも「シルレルの頭蓋骨を見守れるゲエテ」とか何《なん》とか言ふ半身像を作つた。けれどもこれはシルレルではない、誰か他の人の頭蓋骨だつた。(ほんたうのシルレルの頭蓋骨はやつと近年テユウビンゲンの解剖学《かいばうがく》の教授に発見された。)僕はかう言ふ話を読み、悪魔のいたづらを見たやうに感じた。他人の頭蓋骨に感激したゲエテは勿論|滑稽《こつけい》に見えるであらう。しかしその頭蓋骨がなかつたとしたらば、ゲエテ詩集は少くとも「シルレル」の一篇を欠いてゐたのである。(十一月二十日)
六 美人禍
ゲエテをワイマアルの宮廷から退《しりぞ》かせたのはフオン・ハイゲンドルフ夫人である。しかも又シヨオペンハウエルに一世一代の恋歌《れんか》を作らせたのもやはりこのフオン・ハイゲンドルフ夫人である。前者に反感を抱いた女性は彼女の外《ほか》になかつたらしい。後者に好感を与へたのは勿論彼女|一人《ひとり》である。兎《と》に角《かく》両天才を悩ませただけでも、ただの女ではなかつたのであらう。現に写真に徴《ちやう》すると、目の大きい、鼻の尖《とが》つた、如何《いか》にも一癖ありげな美人である。(二十一日)
七 放心
僕は教師をしてゐた頃、ネクタイをするのを忘れたまま、澄まして往来《わうらい》を歩いてゐた。それを幸ひにも見つけてくれたのは当年の菅忠雄《すがただを》君
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング