窓
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)沢木梢氏《さはきこずゑし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)誰|一人《ひとり》
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(例)[#地から1字上げ](大正八年二月)
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――沢木梢氏《さはきこずゑし》に――
おれの家《うち》の二階の窓は、丁度《ちやうど》向うの家《うち》の二階の窓と向ひ合ふやうになつてゐる。
向うの家の二階の窓には、百合《ゆり》や薔薇《ばら》の鉢植が行儀《ぎやうぎ》よく幾つも並んでゐる。が、その後《うしろ》には黄いろい窓掛が大抵《たいてい》重さうに下つてゐるから、部屋の中の主人の姿は、未《ま》だ一度も見た事がない。
おれの家の二階の窓際には、古ぼけた肱掛椅子《ひぢかけいす》が置いてある。おれは毎日その肱掛椅子《ひぢかけいす》へ腰を下《おろ》して、ぼんやり往来《わうらい》の人音《ひとおと》を聞いてゐる。
いつ何時《なんどき》おれの所へも、客が来ないものでもない。おれの家《うち》の玄関には、ちやんと電鈴がとりつけてある。今にもあの電鈴の愉快な音が、勢よく家中《うちぢう》に鳴り渡つたら、おれはこの肱掛椅子から立上つて、早速《さつそく》遠来の珍客を迎へる為に、両腕を大きくひろげた儘、戸口の方へ歩いて行《ゆ》かう。
おれは時々こんな空想を浮べながら、ぼんやり往来《わうらい》の人音《ひとおと》を聞いてゐる。が、いつまでたつても、おれの所へは訪問に来る客がない。おれの部屋の中には鏡にうつるおれ自身ばかりが、いつもおれの相手を勤《つと》めてゐる。
それが長い長い間《あひだ》の事であつた。
その内に或夕方、ふとおれが向うの二階の窓を見ると、黄いろい窓掛を後《うしろ》にして、私窩子《しくわし》のやうな女が立つてゐる。どうも見た所では混血児《あひのこ》か何からしい。頬紅《ほほべに》をさして、目《ま》ぶちを黒くぬつて、絹のキモノをひつかけて、細い金《きん》の耳環《みみわ》をぶら下げてゐる。それがおれの顔を見ると、媚《こび》の多い眼を挙げて、慇懃《いんぎん》におれへ会釈《ゑしやく》をした。
おれは何年にも人に会つた事がない。おれの部屋の中には、鏡にうつるおれ自身ばかりが、いつもおれの相手を勤めてゐる。だからこの私窩子《しくわし》のやうな女が会釈《ゑしやく》をした時、おれは相手を卑《いや》しむより先に、こちらも眼で笑ひながら、黙礼を返さずにはゐられなかつた。
それから毎日夕方になると、必ず混血児《あひのこ》の女は向うの窓の前へ立つて、下品な嬌態《けうたい》をつくりながら、慇懃《いんぎん》におれへ会釈《ゑしやく》をする。時によると鉢植の薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花を折つて、往来越しにこちらの窓へ投げてよこす事もある。
するとおれもいつの間《ま》にか、古ぼけた肱掛椅子《ひぢかけいす》に腰を下して、往来の人音を聞く事が懶《ものう》いやうになり始めた。いくらおれが待ち暮した所で、客は永久に来ないかも知れない。おれはあまり長い間《あひだ》、鏡にうつるおれ自身の相手を勤めてゐたやうな気がする。もう遠来の客ばかり待つてゐるのは止めにしよう。
そこであの私窩子《しくわし》のやうな女が会釈《ゑしやく》をすると、おれの方でも必ず会釈《ゑしやく》をする。
それが又長い長い間の事であつた。
所が或朝、おれの所へ来た手紙を見ると、折角《せつかく》おれを尋ねたが、いくら電鈴の鈕《ボタン》を押しても、誰|一人《ひとり》返事をしなかつたから、おれに会ふ事もやむを得ず断念をしたと書いてある。おれは昨夜《ゆうべ》あの混血児《あひのこ》の女が抛《はう》りこんだ、薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花を踏みながら、わざわざ玄関まで下りて行つて、電鈴の具合《ぐあひ》を調べて見た。すると知らない間《ま》に電鈴の針金が錆《さ》びたせゐか、誰かの悪戯《いたづら》か、二つに途中から切れてゐる。おれの心は重くなつた。おれがあの黄いろい窓掛の後《うしろ》に住んでゐる私窩子《しくわし》のやうな女を知らずにゐたら、おれの待ちに待つてゐた客の一人は、とうにこの電鈴の愉快な響を、おれの耳へ伝へたのに相違あるまい。
おれは静に又二階へ行つて、窓際の肱掛椅子《ひぢかけいす》に腰を下した。
夕方になると、又向うの家の二階の窓には、絹のキモノを着た女が現れて、下品な嬌態《けうたい》をつくりながら、慇懃《いんぎん》におれへ会釈《ゑしやく》をする。が、おれはもうその会釈には答へない。その代り人気《ひとげ》のない薄明りの往来《わうらい》を眺めながら、いつかはおれの戸口へ立つかも知れない遠来の客を待つてゐる。前のやうに寂しく。
[#地から1字上げ](大正八年二月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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