槍ヶ嶽紀行
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)島々《しま/\》と

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十|恰好《がつこう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山+賛」、145−上−13]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんぐわん》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しま/\
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   一

 島々《しま/\》と云ふ町の宿屋へ着いたのは、午過ぎ――もう夕方に近い頃であつた。宿屋の上《あが》り框《かまち》には、三十|恰好《がつこう》の浴衣の男が、青竹の笛を鳴らしてゐた。
 私《わたし》はその癇高い音《ね》を聞きながら、埃にまみれた草鞋の紐を解いた。其処へ婢《をんな》が浅い盥《たらひ》に、洗足の水を汲んで来た。水は冷たく澄んだ底に、粗い砂を沈めてゐた。
 二階の縁側の日除けには、日の光が強く残つてゐた。そのせゐか畳も襖も、残酷な程むさくるしく見えた。夏服を浴衣に着換へた私は、括《くく》り枕を出して貰つて、長長と仰向けに寝ころんだ儘、昨日東京を立つ時に買つた講談|玉菊燈籠《たまぎくどうろう》を少し読んだ。読みながら、浴衣の糊の臭ひが、始終気になつて仕方がなかつた。
 日がかげるとさつきの婢が、塗りの剥げた高盆に[#「高盆に」は底本では「高盆の」]湯札を一枚のせて来た。さうして湯屋は向う側にあるから、一風呂浴びて来てくれと云つた。
 それから繩の緒の下駄をはいて、石高な路の向うにある小さな銭湯へはひりに行つた。湯屋は着物を脱ぐ所が、やつと二畳ばかりしかなかつた。
 客は私一人ぎりであつた。もう薄暗い湯壺に浸つてゐると、ぽたりと何かが湯の上へ落ちた。手に掬つて、流しの明りに見たら、馬陸《やすで》と云ふ虫であつた。手のひらの水の中に、その褐色の虫がはつきりと、伸びたり縮んだりするのを見る事は、妙に私を寂しくさせた。
 湯屋から帰つて、晩飯の膳に向つた時、私は婢に槍ヶ嶽の案内者を一人頼んでくれと云つた。婢は早速承知して、竹の台のランプに火をともしてから、一人の男を二階に呼び上げた。それは先刻上り口で、青竹の笛を吹いてゐた男であつた。
「槍ヶ嶽の事なら、この人は縁の下の五味《ごみ》まで知つて居ります。」
 婢はこんな常談を云ひながら、荒らされた膳を下げて行つた。
 私はその男にいろいろ山の事を尋ねた。槍ヶ嶽を越えて、飛騨《ひだ》の蒲田《がまた》温泉へ出る事が出来るかどうか。近頃噴火の噂がある、焼嶽《やけだけ》へも登山出来るかどうか。槍ヶ嶽の峯伝ひに穂高山《ほたかやま》へ行く事が出来るかどうか。――さう云ふ事が主な問題であつた。男は窮屈さうに畏りながら、無造作にそれらは容易だと答へた。
「旦那さへ御歩けになれりや、何処でも訳はありません。」
 私は苦笑[#「苦笑」は底本では「苦突」]した。上州《じやうしう》の三山、浅間山《あさまやま》、木曾《きそ》の御嶽《おんたけ》、それから駒《こま》ヶ嶽《たけ》――その外《ほか》山と名づくべき山には、一度も登つた事のない私であつた。
「さうさな。まづ山岳会の連中並みに歩ければ、見つけものと思つて貰はう。」
 男が階下へ去つた時、私はすぐに床を敷いて貰つて、古蚊帳の中に横になつた。戸を明け放つた縁側の外には、暗い山に唯一点、赤い炭焼きの火が動いてゐた。それがかすかながら、私の心に、旅愁とも云ふべき寂しさを運んで来た。
 やがて婢が戸をしめに来た。戸の走る度に山の上の星月夜が、私の眼界から消えて行つた。間もなく私の寝てゐるまはりは、古蚊帳に四方を遮られた、行燈《あんどん》ばかりの薄暗がりになつた。私は大きな眼をあきながら、古蚊帳の天井を眺めてゐた。するとあの青竹の笛の音が、かすかに又階下から聞えて来た。

   二

 ――山の岨《そば》を一つ曲ると、突然私たちの足もとから、何匹かの獣が走り去つた。
「畜生、鉄砲さへあれば、逃しはしないのだが。」
 案内者は足を止めて、忌々しさうに舌打ちをしながら、路ばたの橡《とち》の大木を見上げた。
 橡の若葉が重なり合つて、路の上の空を遮つた枝には、二匹の仔猿をつれた親猿が、静に私たちを見下してゐた。
 私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が徐《おもむろ》に、[#「に、」は底本では「、に」]梢を伝つて行く姿を眺めた。が、猿は案内者にとつては、猿であるよりも先に獲物であつた。彼は立ち去り難いやうに、橡の梢を仰ぎながら、礫《つぶて》を拾つて投げたりした。
「おい、行かう。」
 私はかう彼を促した。彼はまだ猿を見返りながら、渋々又歩き出した。私は多少不快で
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