ふ異名を負つた、日本アルプスに棲む羚羊《かもしか》であつた。
やがてその日も暮れかかる頃、私たちの周囲には、次第に残雪の色が多くなつて来た。それから石の上に枝を拡げた、寂しい偃ひ松の群も見え始めた。
私は時々大石の上に足を止めて、何時か姿を露《あらは》し出した、槍ヶ嶽の絶巓《ぜつてん》を眺めやつた。絶巓は大きな石鏃《やじり》のやうに、夕焼の余炎が消えかかつた空を、何時も黒々と切り抜いてゐた。「山は自然の始にして又終なり」――私はその頂を眺める度に、かう云ふ文語体の感想を必《かならず》心に繰返した。それは確か以前読んだ、ラスキンの中にある言葉であつた。
その内に寒い霧の一団が、もう暗くなつた谷の下から、大石と偃ひ松との上を這つて、私たちの方へ上つて来た。さうしてそれがあたりを包むと、俄に小雨交《こさめまじ》りの風が私たちの顔を吹き始めた。私は漸く山上の高寒を肌に感じながら、一分も早く今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の斜面を登つて行つた。が、ふと異様な声に驚かされて、思はず左右を見廻すと、あまり遠くない偃ひ松の茂みの上を、流れるやうに飛んで行く褐色の鳥が一羽あつた。
「何だい、あの鳥は。」
「雷鳥《らいてう》です。」
小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、相不変無愛想にかう答へた。
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日発行
初出:「改造」改造社
1920(大正9)年7月
※巻末に1920(大正9)年6月記と記載有り。
※疑問箇所の確認と訂正にあたっては、「芥川龍之介全集 第六巻」岩波書店、1996(平成8)年4月8日発行を参照した。
※「それにも関らず峠へかかると、彼と私の間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。」は、「芥川龍之介全集 第六巻」岩波書店、1996(平成8)年4月8日発行(以下同)では、「それにも関らず峠へかかると、彼と私との間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。」とされており、「彼と私の間」ではなく、「彼と私との間」となっている。
※「馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と蓙《ござ》を煽つて行く私、――それがこの急な路の上に、生きて動いてゐるすべてであつた。」は、「馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と蓙《ござ》を煽《あふ》つて行く私と、――それがこの急な路の上に、生きて動いてゐるすべてであつた。」とされており、「煽つて行く私、」ではなく、「煽つて行く私と、」となっている。
※「牛は沾《うる》[#「沾」は底本では「沽」]んだ眼を挙げて、じつと私の顔を眺めた。」は、「牛は沾《うる》んだ眼を挙げて、ぢつと私の顔を眺めた。」とされており、「じつと」ではなく、「ぢつと」となっている。
※「私たちの左手《ゆんで》に続いてゐる絶壁上を指さしながら、」は、「私たちの左手《ゆんで》に続いてゐる絶壁の上を指さしながら、」とされており、「絶壁上」ではなく、「絶壁の上」となっている。
※「小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、相不変無愛想にかう答へた。」は、「小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、不相変無愛想にかう答へた。」とされており、「相不変」ではなく、「不相変」となっている。
入力:林 幸雄
校正:砂場清隆
2003年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング