限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘《ギリシャ》の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」
「しかし泥烏須《デウス》は勝つ筈です。」
オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
「私《わたし》はつい四五日|前《まえ》、西国《さいこく》の海辺《うみべ》に上陸した、希臘《ギリシャ》の船乗りに遇《あ》いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕《いのこ》にする女神《めがみ》の話だの、声の美しい人魚《にんぎょ》の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇《あ》った時から、この国の土人に変りました。今では百合若《ゆりわか》と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須《デウス》も必ず勝つとは云われません。天主教《てんしゅきょう》はいくら弘《ひろ》まっても、必ず勝つとは云われません。」
老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須《デウス》自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇《ばら》の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明《ゆうあか》りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。
× × ×
南蛮寺《なんばんじ》のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾《すそ》を引いた、鼻の高い紅毛人《こうもうじん》は、黄昏《たそがれ》の光の漂《ただよ》った、架空《かくう》の月桂《げっけい》や薔薇の中から、一双の屏風《びょうぶ》へ帰って行った。南蛮船《なんばんせん》入津《にゅうしん》の図を描《か》いた、三世紀以前の古屏風へ。
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