云う文字がはいった後《のち》も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海《くうかい》、道風《どうふう》、佐理《さり》、行成《こうぜい》――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟《ぼくせき》です。しかし彼等の筆先《ふでさき》からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之《おうぎし》でもなければ※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82] 遂良《ちょすいりょう》でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹《いぶ》きは潮風《しおかぜ》のように、老儒《ろうじゅ》の道さえも和《やわら》げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆|孟子《もうし》の著書は、我々の怒に触《ふ》れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆《くつがえ》ると信じています。科戸《しなと》の神はまだ一度も、そんな悪戯《いたずら》はしていません。が、そう云う信仰の中《うち》にも、この国に住んでいる我々の力は、朧《おぼろ》げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
 オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎《うと》い彼には、折角《せっかく》の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後《のち》に来たのは、印度《インド》の王子|悉達多《したあるた》です。――」
 老人は言葉を続けながら、径《みち》ばたの薔薇《ばら》の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅《か》いだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀《ぶっだ》の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡《ほんじすいじゃく》の教の事です。あの教はこの国の土人に、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴《おおひるめむち》は大日如来《だいにちにょらい》と同じものだと思わせました。
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