待っていました。
「それではあの庭の松に御登り。」
女房はこう云いつけました。もとより仙人になる術なぞは、知っているはずがありませんから、何でも権助に出来そうもない、むずかしい事を云いつけて、もしそれが出来ない時には、また向う二十年の間、ただで使おうと思ったのでしょう。しかし権助はその言葉を聞くとすぐに庭の松へ登りました。
「もっと高く。もっとずっと高く御登り。」
女房は縁先《えんさき》に佇《たたず》みながら、松の上の権助を見上げました。権助の着た紋附の羽織は、もうその大きな庭の松でも、一番高い梢《こずえ》にひらめいています。
「今度は右の手を御放《おはな》し。」
権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、そろそろ右の手を放しました。
「それから左の手も放しておしまい。」
「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者《いなかもの》は落ちてしまうぜ。落ちれば下には石があるし、とても命はありゃしない。」
医者もとうとう縁先へ、心配そうな顔を出しました。
「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せて御置きなさい。――さあ、左の手を放すのだよ。」
権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣《わけ》はありません。あっと云う間《ま》に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢《こずえ》から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空《なかぞら》へ、まるで操《あやつ》り人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有《ありがと》うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」
権助は叮嚀《ていねい》に御時宜《おじぎ》をすると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。
医者夫婦はどうしたか、それは誰も知っていません。ただその医者の庭の松は、ずっと後《あと》までも残っていました。何でも淀屋辰五郎《よどやたつごろう》は、この松の雪景色を眺めるために、四抱《よかか》えにも余る大木をわざわざ庭へ引かせたそうです。
[#地から1字上げ](大正十一年三月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷
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