師の心から、一切の日光と空気とを遮断して、しまいには、人並に生きてゆこうと云う気さえ、未練|未釈《みしゃく》なく枯らしてしまう。何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。勿論、李は一度もそう云う問題を考えて見た事がない。が、その苦しみを、不当だとは、思っている。そうして、その苦しみを与えるものを――それが何だか、李にはわからないが――無意識ながら憎んでいる。事によると、李が何にでも持っている、漠然とした反抗的な心もちは、この無意識の憎しみが、原因になっているのかも知れない。
 しかし、そうは云うものの、李も、すべての東洋人のように、運命の前には、比較的屈従を意としていない。風雪《ふうせつ》の一日を、客舎《はたご》の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹の鼠に向って、こんな事を云った。「辛抱《しんぼう》しろよ。己《おれ》だって、腹がへるのや、寒いのを辛抱しているのだからな。どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。それも、鼠よりは、いくら人間の方が、苦しいか知れないぞ………」

          中

 雪曇りの空が、いつの間にか、霙《みぞれ》まじりの雨をふらせて、狭い往来を文字通り、脛《はぎ》を没する泥濘《でいねい》に満そうとしている、ある寒い日の午後の事であった。李小二《りしょうじ》は丁度、商売から帰る所で、例の通り、鼠を入れた嚢《ふくろ》を肩にかけながら、傘を忘れた悲しさに、ずぶぬれになって、市《まち》はずれの、人通りのない路を歩いて来る――と、路傍《みちばた》に、小さな廟《びょう》が見えた。折から、降りが、前よりもひどくなって、肩をすぼめて歩いていると、鼻の先からは、滴《しずく》が垂れる。襟からは、水がはいる。途方に暮れていた際だから、李は、廟を見ると、慌てて、その軒下へかけこんだ。まず、顔の滴をはらう。それから、袖をしぼる。やっと、人心地がついた所で頭の上の扁額《へんがく》を見ると、それには、山神廟《さんじんびょう》と云う三字があった。
 入口の石段を、二三級|上《のぼ》ると、扉が開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭い。正面には、一尊《いっそん》の金甲山神が、蜘蛛《くも》の巣にとざされながら、ぼんやり日の暮を待っている。その右には、判官《はんがん》が一体、これは、誰に悪戯《いたずら》をされたのだか、首がない。左には、小鬼が一体、緑面朱髪で、※[#「けものへん+爭」、第4水準2−80−40]獰《そうどう》な顔をしているが、これも生憎《あいにく》、鼻が虧《か》けている。その前の、埃のつもった床に、積重ねてあるのは、紙銭《しせん》であろう。これは、うす暗い中に、金紙や銀紙が、覚束《おぼつか》なく光っているので、知れたのである。
 李は、これだけ、見定めた所で、視線を、廟の中から外へ、転じようとした。すると丁度その途端に、紙銭の積んである中から、人間が一人出て来た。実際は、前からそこに蹲《うずくま》っていたのが、その時、始めて、うす暗いのに慣れた李の眼に、見えて来たのであろう。が、彼には、まるで、それが、紙銭の中から、忽然として、姿を現したように思われた。そこで、彼は、いささか、ぎょっとしながら、恐る恐る、見るような、見ないような顔をして、そっとその人間を窺《うかが》って見た。
 垢じみた道服《どうふく》を着て、鳥が巣をくいそうな頭をした、見苦しい老人である。(ははあ、乞丐《こじき》をして歩く道士だな――李はこう思った。)瘠せた膝を、両腕で抱くようにして、その膝の上へ、髯《ひげ》の長い頤《あご》をのせている。眼は開いているが、どこを見ているのかわからない。やはり、この雨に遇ったと云う事は、道服の肩がぐっしょり濡れているので、知れた。
 李は、この老人を見た時に、何とか語《ことば》をかけなければ、ならないような気がした。一つには、濡鼠《ぬれねずみ》になった老人の姿が、幾分の同情を動かしたからで、また一つには、世故《せこ》がこう云う場合に、こっちから口を切る習慣を、いつかつけてしまったからである。あるいは、また、そのほかに、始めの無気味な心もちを忘れようとする努力が、少しは加わっていたかも知れない。そこで李が云った。
「どうも、困ったお天気ですな。」
「さようさ。」老人は、膝の上から、頤を離して、始めて、李の方を見た。鳥の嘴《くちばし》のように曲った、鍵鼻《かぎばな》を、二三度大仰にうごめかしながら、眉の間を狭くして、見たのである。
「私のような商売をしている人間には、雨位、人泣かせのものはありません。」
「ははあ、何御商売かな。」
「鼠を使って、芝居をさせるのです。」
「それはまたお珍しい。」
 こんな具合で、二人の間には、少しずつ、会話が、交換され
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