暗いな。
Bの声 もう少しで君のマントルの裾をふむ所だった。
Aの声 ふきあげの音がしているぜ。
Bの声 うん。もう露台の下へ来たのだよ。
×
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女が大勢裸ですわったり、立ったり、ねころんだりしている。薄明り。
[#ここで字下げ終わり]
――まだ今夜は来ないのね。
――もう月もかくれてしまったわ。
――早く来ればいいのにさ。
――もう声がきこえてもいい時分だわね。
――声ばかりなのがもの足りなかった。
――ええ、それでも肌ざわりはするわ。
――はじめは怖《こわ》かったわね。
――私《あたし》なんか一晩中ふるえていたわ。
――私もよ。
――そうすると「おふるえでない」って云うのでしょう。
――ええ、ええ。
――なお怖かったわ。
――あの方《かた》のお産はすんで?
――とうにすんだわ。
――うれしがっていらっしゃるでしょうね。
――可哀いいお子さんよ。
――私も母親になりたいわ。
――おおいやだ、私はちっともそんな気はしないわ。
――そう?
――ええ、いやじゃありませんか。私はただ男に可哀がられるのが好き。
――まあ。
Aの声 今夜はまだ灯《ひ》がついてるね。お前たちの肌が、青い紗《しゃ》の中でうごいているのはきれいだよ。
――あらもういらしったの。
――こっちへいらっしゃいよ。
――今夜はこっちへいらっしゃいましな。
Aの声 お前は金の腕環《うでわ》なんぞはめているね。
――ええ、何故?
Bの声 何でもないのさ。お前の髪は、素馨《そけい》のにおいがするじゃないか。
――ええ。
Aの声 お前はまだふるえているね。
――うれしいのだわ。
――こっちへいらっしゃいな。
――まだ、そこにいらっしゃるの。
Bの声 お前の手は柔らかいね。
――いつでも可哀がって頂戴な。
――今夜は外《よそ》へいらしっちゃあいやよ。
――きっとよ。よくって。
――ああ、ああ。
女の声がだんだん微《かすか》な呻吟になってしまいに聞えなくなる。
沈黙。急に大勢の兵卒が槍を持ってどこからか出て来る。兵卒の声。
――ここに足あとがあるぞ。
――ここにもある。
――そら、そこへ逃げた。
――逃がすな。逃がすな。
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騒擾。女はみな悲鳴をあげてにげる。兵卒は足跡をたずねて、そこここを追いまわる。灯が消えて舞台が暗くなる。
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AとBとマントルを着て出てくる。反対の方向から黒い覆面をした男が来る。うす暗がり。
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AとB そこにいるのは誰だ。
男 お前たちだって己《おれ》の声をきき忘れはしないだろう。
AとB 誰だ。
男 己は死だ。
AとB 死?
男 そんなに驚くことはない。己は昔もいた。今もいる。これからもいるだろう。事によると「いる」と云えるのは己ばかりかも知れない。
A お前は何の用があって来たのだ。
男 己の用はいつも一つしかない筈だが。
B その用で来たのか。ああその用で来たのか。
A うんその用で来たのか。己はお前を待っていた。今こそお前の顔が見られるだろう。さあ己の命をとってくれ。
男 (Bに)お前も己の来るのを待っていたか。
B いや、己はお前なぞ待ってはいない。己は生きたいのだ。どうか己にもう少し生を味わせてくれ。己はまだ若い。己の脈管にはまだ暖い血が流れている。どうか己にもう少し己の生活を楽ませてくれ。
男 お前も己が一度も歎願に動かされた事のないのを知っているだろう。
B (絶望して)どうしても己は死ななければならないのか。ああどうしても己は死ななければならないのか。
男 お前は物心がつくと死んでいたのも同じ事だ。今まで太陽を仰ぐことが出来たのは己の慈悲だと思うがいい。
B それは己ばかりではない。生まれる時に死を負って来るのはすべての人間の運命だ。
男 己はそんな意味でそう云ったのではない。お前は今日まで己を忘れていたろう。己の呼吸を聞かずにいたろう。お前はすべての欺罔《ぎもう》を破ろうとして快楽を求めながら、お前の求めた快楽その物がやはり欺罔にすぎないのを知らなかった。お前が己を忘れた時、お前の霊魂は飢えていた。飢えた霊魂は常に己を求める。お前は己を避けようとしてかえって己を招いたのだ。
B ああ。
男 己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる己を忘れていた。己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。
B ああ。(仆れて死ぬ。)
男 (笑う)莫迦《ばか》な奴だ。(Aに)怖がることはない。もっと此方《こっち》へ来るがいい。
A 己は待っている。己は怖がるような
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