臆病者ではない。
男 お前は己の顔をみたがっていたな。もう夜もあけるだろう。よく己の顔を見るがいい。
A その顔がお前か? 己はお前の顔がそんなに美しいとは思わなかった。
男 己はお前の命をとりに来たのではない。
A いや己は待っている。己はお前のほかに何も知らない人間だ。己は命を持っていても仕方ない人間だ。己の命をとってくれ。そして己の苦しみを助けてくれ。
第三の声 莫迦《ばか》な事を云うな。よく己の顔をみろ。お前の命をたすけたのはお前が己を忘れなかったからだ。しかし己はすべてのお前の行為を是認してはいない。よく己の顔を見ろ。お前の誤りがわかったか。これからも生きられるかどうかはお前の努力次第だ。
Aの声 己にはお前の顔がだんだん若くなってゆくのが見える。
第三の声 (静に)夜明だ。己と一緒に大きな世界へ来るがいい。
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黎明《れいめい》の光の中に黒い覆面をした男とAとが出て行くのが見える。
[#ここで字下げ終わり]

        ×

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兵卒が五六人でBの死骸を引ずって来る。死骸は裸、所々に創《きず》がある。
[#地付き]――竜樹菩薩に関する俗伝より――
[#地から1字上げ](大正三年八月十四日)
[#ここで字下げ終わり]



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:野口英司
1998年3月10日公開
2004年3月9日修正
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