ねて、そこここを追いまわる。灯が消えて舞台が暗くなる。
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AとBとマントルを着て出てくる。反対の方向から黒い覆面をした男が来る。うす暗がり。
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AとB そこにいるのは誰だ。
男 お前たちだって己《おれ》の声をきき忘れはしないだろう。
AとB 誰だ。
男 己は死だ。
AとB 死?
男 そんなに驚くことはない。己は昔もいた。今もいる。これからもいるだろう。事によると「いる」と云えるのは己ばかりかも知れない。
A お前は何の用があって来たのだ。
男 己の用はいつも一つしかない筈だが。
B その用で来たのか。ああその用で来たのか。
A うんその用で来たのか。己はお前を待っていた。今こそお前の顔が見られるだろう。さあ己の命をとってくれ。
男 (Bに)お前も己の来るのを待っていたか。
B いや、己はお前なぞ待ってはいない。己は生きたいのだ。どうか己にもう少し生を味わせてくれ。己はまだ若い。己の脈管にはまだ暖い血が流れている。どうか己にもう少し己の生活を楽ませてくれ。
男 お前も己が一度も歎願に動かされた事のないのを知っているだろう。
B (絶望して)どうしても己は死ななければならないのか。ああどうしても己は死ななければならないのか。
男 お前は物心がつくと死んでいたのも同じ事だ。今まで太陽を仰ぐことが出来たのは己の慈悲だと思うがいい。
B それは己ばかりではない。生まれる時に死を負って来るのはすべての人間の運命だ。
男 己はそんな意味でそう云ったのではない。お前は今日まで己を忘れていたろう。己の呼吸を聞かずにいたろう。お前はすべての欺罔《ぎもう》を破ろうとして快楽を求めながら、お前の求めた快楽その物がやはり欺罔にすぎないのを知らなかった。お前が己を忘れた時、お前の霊魂は飢えていた。飢えた霊魂は常に己を求める。お前は己を避けようとしてかえって己を招いたのだ。
B ああ。
男 己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる己を忘れていた。己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。
B ああ。(仆れて死ぬ。)
男 (笑う)莫迦《ばか》な奴だ。(Aに)怖がることはない。もっと此方《こっち》へ来るがいい。
A 己は待っている。己は怖がるような
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