便利なら、僕等素人の見物にも難有《ありがた》くはないかと尋ねたくなる。
しかしこれらの画の作者は、「我々には自然がかう見えるのだ。かう見えると云ふ意味は、西洋画風にと云ふ意味ぢやない。我々の日本画風にと云ふ意味だ」と、立派《りつぱ》な返答をするかも知れない。よろしい。それも心得た。が、これらの画の中には、どう考へても西洋画と選ぶ所のない画が沢山《たくさん》ある。たとへば吉田白流《よしだはくりう》氏の「奥州路《あうしうぢ》」の如き、遠藤教三《ゑんどうけうざう》氏の「嫩葉《ふたば》の森」の如き、乃至《ないし》穴山義平《あなやまぎへい》氏の「盛夏」の如きは、皆この類《たぐひ》の作品である。もし「我々の日本画風」が、かう云ふものであるとすれば、それは遺憾《ゐかん》ながら僕なぞには、余り結構なものとは思はれない。まづ冷酷《れいこく》に批評すると、本来|剃刀《かみそり》で剃《そ》るべき髭《ひげ》を、薙刀《なぎなた》で剃つて見せたと云ふ御手柄《おてがら》に感服するだけである。さうして一応感服した後《あと》では、或は剃刀を使つた方が、もつとよく剃れはしなかつたらうかと尋ねたくなるだけである。
尤《
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