あげて、見るともなくこっちへ眼をやった。本間さんは、その時、心の中で思わず「おや」と云うかすかな叫び声を発したのである。
それは何故かと云うと、本間さんにはその老紳士の顔が、どこかで一度見た事があるように思われた。もっとも実際の顔を見たのだか、写真で見たのだか、その辺ははっきりわからない。が、見た覚えは確かにある。そこで本間さんは、慌しく頭の中で知っている人の名前を点検した。
すると、まだその点検がすまない中に、老紳士はつと立上って、車の動揺に抵抗しながら、大股《おおまた》に本間さんの前へ歩みよった。そうしてそのテエブルの向うへ、無造作《むぞうさ》に腰を下すと、壮年のような大きな声を出して、「やあ失敬」と声をかけた。
本間さんは何だかわからないが、年長者の手前、意味のない微笑を浮べながら、鷹揚《おうよう》に一寸《ちょっと》頭を下げた。
「君は僕を知っていますか。なに知っていない? 知っていなければ、いなくってもよろしい。君は大学の学生でしょう。しかも文科大学だ。僕も君も似たような商売をしている人間です。事によると、同業組合の一人かも知れない。何です、君の専門は?」
「史学科です。
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