て、わざと冷かに前の疑問をつきつけた。が、老人にとっては、この疑問も、格別、重大な効果を与えなかったらしい。彼はそれを聞くと依然として傲慢な態度を持しながら、故《ことさ》らに肩を聳《そびや》かせて見せた。
「同じ汽車に乗っているのだから、君さえ見ようと云えば、今でも見られます。もっとも南洲《なんしゅう》先生はもう眠《ねむっ》てしまったかも知れないが、なにこの一つ前の一等室だから、無駄足をしても大した損ではない。」
老紳士はこう云うと、瀬戸物のパイプをポケットへしまいながら、眼で本間さんに「来給え」と云う合図《あいず》をして、大儀そうに立ち上った。こうなっては、本間さんもとにかく一しょに、立たざるを得ない。そこでM・C・Cを銜《くわ》えたまま、両手をズボンのポケットに入れて、不承不承《ふしょうぶしょう》に席を離れた。そうして蹌踉《そうろう》たる老紳士の後《うしろ》から、二列に並んでいるテエブルの間を、大股に戸口の方へ歩いて行った。後《あと》にはただ、白葡萄酒のコップとウイスキイのコップとが、白いテエブル・クロオスの上へ、うすい半透明な影を落して、列車を襲いかかる雨の音の中に、寂しくその影をふるわせている。
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それから十分ばかりたった後《あと》の事である。白葡萄酒のコップとウイスキイのコップとは、再び無愛想なウェエタアの手で、琥珀色《こはくいろ》の液体がその中に充《みた》された。いや、そればかりではない。二つのコップを囲んでは、鼻眼鏡をかけた老紳士と、大学の制服を着た本間《ほんま》さんとが、また前のように腰を下している。その一つ向うのテエブルには、さっき二人と入れちがいにはいって来た、着流しの肥った男と、芸者らしい女とが、これは海老《えび》のフライか何かを突《つっ》ついてでもいるらしい。滑《なめら》かな上方弁《かみがたべん》の会話が、纏綿《てんめん》として進行する間に、かちゃかちゃ云うフォオクの音が、しきりなく耳にはいって来た。
が、幸い本間さんには、少しもそれが気にならない。何故かと云うと、本間さんの頭には、今見て来た驚くべき光景が、一ぱいになって拡がっている。一等室の鶯茶《うぐいすちゃ》がかった腰掛と、同じ色の窓帷《カアテン》と、そうしてその間に居睡《いねむ》りをしている、山のような白頭の肥大漢と、――ああその堂々たる相貌に、南洲先生の風骨を認めたのは果して自分の見ちがいであったろうか。あすこの電燈は、気のせいか、ここよりも明くない。が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。そうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れている西郷隆盛の顔であった。……
「どうですね。これでもまだ、君は城山戦死説を主張しますか。」
老紳士は赤くなった顔に、晴々《はればれ》とした微笑を浮べて、本間さんの答を促した。
「…………」
本間さんは当惑した。自分はどちらを信ずればよいのであろう。万人に正確だと認められている無数の史料か、あるいは今見て来た魁偉《かいい》な老紳士か。前者を疑うのが自分の頭を疑うのなら、後者を疑うのは自分の眼を疑うのである。本間さんが当惑したのは、少しも偶然ではない。
「君は今現に、南洲先生を眼《ま》のあたりに見ながら、しかも猶《なお》史料を信じたがっている。」
老紳士はウイスキイの杯を取り上げながら、講義でもするような調子で語《ことば》を次いだ。
「しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見|当《あて》になりそうで、実ははなはだ当にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間《かん》の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。実際我々には目前の事さえわからない。」
本間さんは実を云うと、そんな事は少しも知らなかった。が、黙っている中《うち》に、老紳士の方で知っているものときめてしまったらしい。
「そこで城山戦死説だが、あの記録にしても、疑いを挟《はさ》む余地は沢山ある。成程西郷隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戦で、死んだと云う事だけはどの史料も一致していましょう。しかしそれはただ、西郷隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云うのにすぎないのです。その人間が実際西郷隆盛かどうかは、自《おのずか》らまた問
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