ながら、片手に火のついたパイプを持って、咽《のど》を鳴らし鳴らし、笑っている。本間さんは何だか訳がわからないので、白葡萄酒の杯を前に置いたまま、茫然とただ、相手の顔を眺めていた。
「それはいます。」老人はしばらくしてから、やっと息をつきながら、こう云った。
「今君が向うで居眠りをしているのを見たでしょう。あの男なぞは、あんなによく西郷隆盛に似ているではないですか。」
「ではあれは――あの人は何《なん》なのです。」
「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、傍《かたわら》南画を描《か》く男ですが。」
「西郷隆盛ではないのですね。」
 本間さんは真面目な声でこう云って、それから急に顔を赤らめた。今まで自分のつとめていた滑稽な役まわりが、この時|忽然《こつぜん》として新しい光に、照される事になったからである。
「もし気に障《さわ》ったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯《いたずら》をする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない。――僕はこう云う人間です。」
 老紳士はポケットをさぐって、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷ってはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顔をどこで見たか、やっと思い出す事が出来たのである。――老紳士は本間さんの顔を眺めながら、満足そうに微笑した。
「先生とは実際夢にも思いませんでした。私こそいろいろ失礼な事を申し上げて、恐縮です。」
「いやさっきの城山戦死説なぞは、なかなか傑作だった。君の卒業論文もああ云う調子なら面白いものが出来るでしょう。僕の方の大学にも、今年は一人維新史を専攻した学生がいる。――まあそんな事より、大《おおい》に一つ飲み給え。」
 霙《みぞれ》まじりの雨も、小止《こや》みになったと見えて、もう窓に音がしなくなった。女連れの客が立った後には、硝子の花瓶にさした菜《な》の花ばかりが、冴え返る食堂車の中にかすかな匂を漂わせている。本間さんは白葡萄酒の杯を勢いよく飲み干すと、色の出た頬をおさえながら、突然、
「先生はスケプティックですね。」と云った。
 老紳士は鼻眼鏡の後《うしろ》から、眼でちょいと頷いた。あの始終何かに微笑を送っているような朗然とした眼で頷いたのである。
「僕はピルロンの弟子で沢
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