中
もう彼是《かれこれ》三十年ばかり昔の事だ。私が始めて、江戸へ下つた時に、たしか吉原のかへりだつたと思ふが、太鼓を二人ばかりつれて、角田川《すみだがは》の渡しを渡つた事がある。どこの渡しだつたか、それも今では覚えてゐない。どこへ行くつもりだつたか、それももう忘れてしまつた。が、その時の容子《ようす》だけは、かう云ふ中《うち》にも、朧《おぼろ》げながら眼の前へ浮んで来る。……
何でも花曇りの午《ひる》すぎで、川すぢ一帯、どこを見ても、煮え切らない、退屈な景色だつた。水も生ぬるさうに光つてゐれば、向う河岸《がし》の家並《やなみ》も、うつらうつら夢を見てゐるやうに思はれる。後《うしろ》をふり返ると、土手の松にまじつて、半開の桜が、べつたり泥絵具《どろゑのぐ》をなすつてゐた。その又やけに白いのが、何時《いつ》になく重くるしい。その上少し時候はづれの暖さで、体さへ動かせば、すぐじつとりと汗がにじむ。勿論さう云ふ陽気だから、水の上にも、吐息《といき》程の風さへない。
乗合は三人で、一人は国姓爺《こくせんや》の人形芝居からぬけ出して来たやうな、耳の垢《あか》取り、一人は廿七八の、眉をおとし
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