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「忘れものをおしでないよ。」
それから、かう云ふ声を聞いた。さうしてそれと同時に、今まで見えなかつた、女の細い喉が見えた。その蓮葉《はすは》な、鼻にかかつた声と、白粉の少しむらになつた、肉のうすい喉とが、私に幾分の刺戟を与へるのは云ふまでもない。が、それよりも寧《むしろ》、私を動かしたのは、丁稚《でつち》の方へふりむいた時の動作が、私の膝へ伝へてくれる、相手の膝の動き方であつた。私は前に、向ふの膝がわかつたと云つた。が、今はそれだけではない。向ふの膝のすべてが――それをつくつてゐる筋肉と関節とが、九年母《くねんぼ》の実と核《たね》とを舌の先にさぐるやうに、一つ一つ私には感じられた。黒羽二重の小袖は、私にとつてないにひとしかつたと云つても、過言ではない。これは、すぐ次に起つた最後の曰《いは》くを知つたなら、君も認めない訳には行かないだらう。
やがて、舟は桟橋《さんばし》についた。舳《みよし》がとんと杭《くひ》にあたると、耳の垢とりは、一番に向ふへとび上る。その
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