唯女がゐると云ふだけで、(廓《くるわ》のかへりではあるし)それが格別痛切にさう思つてゐた訳でも何でもない。だから、伽羅の油のにほひを嗅《か》ぐと、私は、まづ意外な感じがした。さうしてその意外の感じの後《あと》には、すぐに一種の刺戟を感じた。
唯にほひだからと云つても、決して馬鹿にしたものではない。少くとも私にとつては、大抵な事が妙に嗅覚と関係を持つてゐる。早い話が子供の時の心もちだ。手習《てならひ》に行くと、よくいたづらつ子にいぢめられる。それも、師匠に云ひつければ、後《あと》の祟《たたり》が恐ろしい。そこで、涙をのみこんで、一生懸命に又、草紙《さうし》をよごしに行く。さう云ふ時のさびしい、たよりのない心もちは、成人《おとな》になるにつれて、忘れてしまふ。或は思ひ出さうとしても、容易に思ひ出し悪《にく》い。それが腐つた灰墨《はひずみ》のにほひを嗅《か》ぐと、何時でも私には、そんな心もちがかへつて来る。さうして、子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる。――が、これは余事だ。私は唯、伽羅の油のにほひが、急にこの女房の方へ、私の注意を持つて行つた事さへ話せばよい。
さて、気がついて、相手を見ると、黒羽二重《くろはぶたへ》の小袖に裾取《すそとり》の紅《もみ》うらをやさしく出した、小肥《こぶと》りな女だつた。が、唐織寄縞《からおりよせじま》の帯を前でむすんだ所と云ひ、投島田《なげしまだ》に平元結《ひらもとゆひ》をかけて対《つゐ》のさし櫛《ぐし》をした所と云ひ、素人《しろうと》とは思はれない位な、なまめかしさだ。顔はあの西鶴《さいかく》の、「当世の顔はすこしまろく、色はうすはな桜にて」と云ふやつだが、「面道具《おもてだうぐ》の四《よ》つ不足なく揃ひて」はちと覚束《おぼつか》ない。白粉《おしろい》にかくれてはゐるが、雀斑《そばかす》も少々ある。口もとや鼻つきも、稍《やや》下品だつた。が、幸《さいはひ》生際《はえぎは》がいいので、さう云ふ難も、大して目に立たない。――私はまだ残つてゐた昨夜《ゆうべ》の酔が、急にさめたやうな心もちがして、その女の側へ腰を下した。その下した時に又、曰くがある。
曰くといふのは、私の膝が、先方の膝にさはつたのだ。私は卵色|縮緬《ちりめん》の小袖を着てゐる。下は多分肌着に、隠し緋無垢《ひむく》だつたらう。それでも、私には、向ふの膝が
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