かう》を品《ひん》する人のやうな態度で、相手の女房を「鑑賞した。」これは私が殆《ほとんど》すべての女に対してする事だから、大方君にも以前に話した事があるだらう。――私は稍汗ばんだ女の顔の皮膚と、その皮膚の放散するにほひとを味《あぢは》つた。それから、感覚と感情との微妙な交錯《かうさく》に反応する、みづみづしい眼の使ひを味つた。それから、血色のいい頬の上で、かすかに動いてゐる睫毛《まつげ》の影を味つた。それから、膝へのせた手の、うるほひのある、しなやかな、指のくみ方を味つた。それから、膝と腰とにわたる、むつちりした、弾力のある、ゆたかな肉づきを味つた。それから――かう話して行けば、際限がないから、やめにするが、兎に角私はその女房の体を、あらゆる点から味つた。敢て、あらゆる点と云つても、差支へはない。私は感官の力の足りない所を、想像の働きで補つた。或は、その上に又、推理の裏打さへも施した。私の視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温覚、圧覚、――どれ一つとして、この女房が満足させてくれなかつたものはない。いや実に、それ以上のものにさへ満足を与へてくれた。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
「忘れものをおしでないよ。」
 それから、かう云ふ声を聞いた。さうしてそれと同時に、今まで見えなかつた、女の細い喉が見えた。その蓮葉《はすは》な、鼻にかかつた声と、白粉の少しむらになつた、肉のうすい喉とが、私に幾分の刺戟を与へるのは云ふまでもない。が、それよりも寧《むしろ》、私を動かしたのは、丁稚《でつち》の方へふりむいた時の動作が、私の膝へ伝へてくれる、相手の膝の動き方であつた。私は前に、向ふの膝がわかつたと云つた。が、今はそれだけではない。向ふの膝のすべてが――それをつくつてゐる筋肉と関節とが、九年母《くねんぼ》の実と核《たね》とを舌の先にさぐるやうに、一つ一つ私には感じられた。黒羽二重の小袖は、私にとつてないにひとしかつたと云つても、過言ではない。これは、すぐ次に起つた最後の曰《いは》くを知つたなら、君も認めない訳には行かないだらう。
 やがて、舟は桟橋《さんばし》についた。舳《みよし》がとんと杭《くひ》にあたると、耳の垢とりは、一番に向ふへとび上る。その
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