澄江堂雑記
芥川龍之介

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)画《ゑ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日頃|大雅《たいが》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙《そうばう》

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Phoe&nix〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

     一 大雅の画

 僕は日頃|大雅《たいが》の画《ゑ》を欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十円位の大雅を一|幅《ぷく》得たいのである。
 大雅《たいが》は偉い画描《ゑか》きである。昔、高久靄崖《たかひさあいがい》は一文《いちもん》無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ英霊漢《えいれいかん》の筆に成つた画《ゑ》は、何百円と雖《いへど》も高い事はない。それを五十円に値切りたいのは、僕に余財のない悲しさである。しかし大雅の画品を思へば、たとへば五百万円を投ずるのも、僕のやうに五十円を投ずるのも、安いと云ふ点では同じかも知れぬ。芸術品の価値も小切手や紙幣《しへい》に換算出来ると考へるのは、度《ど》し難い俗物ばかりだからである。
 Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出来の好《い》い、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」を欲しがつてゐた。処が実際二度までも莫迦《ばか》に安いレムブラントに遭遇した。一度は一|磅《ポンド》と云ふ価《あたひ》の為に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin に諮《はか》つた上、とうとうそれを手に入れる事が出来た。その画《ゑ》はどう云ふ画だつたか、どの位の金を払つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或|質店《しちみせ》の店さきである。
 かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の大雅《たいが》を得んとするのは、必《かならず》しも不可能事ではないかも知れぬ。何処《どこ》か寂しい町の古道具屋の店に、たつた一幅売り残された、九霞山樵《きうかさんせう》の水墨山水――僕は時時退屈すると弥勒《みろく》の出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへ耽《ふけ》る事がある。

     二 にきび

 昔「羅生門《らしやうもん》」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人《げにん》の頬《ほほ》には、大きい面皰《にきび》のある由を書いた。当時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜《けんそん》すれば当推量《あてずゐりやう》に拠つたのであるが、その後《ご》左経記《さけいき》に二君[#「二君」に傍点]とあり、二君[#「二君」に傍点]又は二禁[#「二禁」に傍点]なるものは今日の面皰である事を知つた。二君[#「二君」に傍点]等は勿論当て字である。尤《もつと》もかう云ふ発見は、僕自身に興味がある程、傍人《ばうじん》には面白くも何《なん》ともあるまい。

     三 将軍

 官憲《くわんけん》は僕の「将軍《しやうぐん》」と云ふ小説に、何行《なんぎやう》も抹殺を施《ほどこ》した。処が今日《けふ》の新聞を見ると生活に窮した廃兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の踏台《ふみだい》」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を歩いたさうである。廃兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも覚束《おぼつか》ないらしい。
 又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、発売禁止を行ふさうである。○○の念は恋愛と同様、虚偽《きよぎ》の上に立つ事の出来るものではない。虚偽とは過去の真理であり、今は通用せぬ藩札《はんさつ》の類《たぐひ》である。官憲は虚偽を強《し》ひながら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと変りはない。
 無邪気なるものは官憲である。

     四 毛生え薬

 文芸と階級問題との関係は、頭と毛生《けは》え薬《ぐすり》との関係に似ている。もしちやんと毛が生えてゐれば、必《かならず》しも塗る事を必要としない。又もし禿《は》げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つても利《き》かないであらう。

     五 芸術至上主義

 芸術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は万象《ばんしやう》の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。芸術家が創作に対する態度も、亦《また》斯《か》くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。
 芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに欠伸《あくび》の出易いものである。

     六 一切不捨

 何《なん》の某《なにがし》は帽子《ばうし》ばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければ好《よ》いのだが、――かう云ふ言葉を做《な》す人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、寸分《すんぶん》も立派《りつぱ》になる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に蔓延《まんえん》するばかりである。
 何《なん》の某《なにがし》の小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫《くふう》をするより、上着もズボンも外套《ぐわいたう》も、上等ならしむる工夫《くふう》をせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を活《い》かすべき工夫をせねばならぬ。
 これは独り芸術上の問題のみではない。人生に於《おい》ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主《ばうず》は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を抱《いだ》き得た坊主である。雲照《うんせう》さへ坊主の羅切《らせつ》を聞いては、「男根《だんこん》は須《すべから》く隆隆《りゆうりゆう》たるべし」と、弟子《でし》共に教へたと云ふではないか?
 我等の内にある一切《いつさい》のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、唯一《ゆゐいち》の成仏《じやうぶつ》の道である。

     七 赤西蠣太

 或時|志賀直哉《しがなほや》氏の愛読者と、「赤西蠣太《あかにしかきた》の恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には栄螺《さざえ》とか鱒次郎《ますじらう》とか安甲《あんかふ》とか、大抵《たいてい》魚貝《ぎよばい》の名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程《なるほど》さうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太の恋」の筋をはつきり覚えてゐたのである。
 客は決して軽薄児《けいはくじ》ではない。学問も人格も兼備した、寧《むし》ろ珍しい文芸通である。しかもこの事実に気づかなかつたのは、志賀氏の作品の型とでも云ふか、兎《と》に角《かく》何時《いつ》か頭の中にさう云ふ物を拵《こしら》へた上、それに囚《とら》はれてゐた為であらう。これは独り客のみではない。我我も気をつけねばならぬ事である。

     八 釣名文人

 古来作家が本を出した時、その本の好評を計《はか》る為に、新聞雑誌に載るべき評論を利用する事は稀《まれ》ではない。中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき匿名《とくめい》のもとに、手前味噌《てまへみそ》の評論を書いたのもある。
 ド・ラ・ロシユフウコオルは名高い格言集の作家である。処がサント・ブウヴの書いたものによると、この人さへジユルナアル・デ・サヴアンに出た評論には、彼自身修正を施したらしい。しかもジユルナアル・デ・サヴアンは、当時発行された唯一《ゆゐいち》の新聞であり、その評論の載つたのは、千六百六十五年三月九日だと云ふのだから、作家の評論を利用するのも、ずいぶん淵源《えんげん》は古いものである。僕はロシユフウコオルの格言を思ひながら、この記事を読んだ時、実際|苦笑《くせう》せずにはゐられなかつた。それを思へば日本の文壇は、新開地だけに悪風も少い。売笑批評とか仲間褒《なかまぼ》め批評とか云つても、まづ害毒は知れたものである。
 因《ちなみ》に云ふ。この評論の筆者はマダム・ド・サブレ、評論されたのは例の格言集である。

     九 歴史小説

 歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠実でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女関係の考へ方でも、現代のそれとは大分《だいぶ》違ふ。其処《そこ》を宛然《ゑんぜん》作者自身も、和泉式部《いづみしきぶ》の友だちだつたやうに、虚心平気に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との対照の間《あひだ》に、自然或暗示を与へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラトもこれである。
 しかし日本の歴史小説には、未《いま》だこの種の作品を見ない。日本のは大抵《たいてい》古人の心に、今人《こんじん》の心と共通する、云はばヒユマンな閃《ひらめ》きを捉《とら》へた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?

     十 世人

 西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月|巴里《パリ》にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。
 ルノアルの言つた言葉に、「画《ゑ》を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。
 世人とは常にかう云ふものである。

     十一 火渡りの行者

 社会主義は、理非曲直《りひきよくちよく》の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰《あたか》も火渡《ひわた》りの行者《ぎやうじや》を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。

     十二 俊寛

 平家物語《へいけものがたり》や源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》以外に、俊寛《しゆんくわん》の新解釈を試みたものは現代に始まつた事ではない。近松門左衛門《ちかまつもんざゑもん》の俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。
 近松の俊寛の島に残るのは、俊寛自身の意志である。丹左衛門尉基康《たんのさゑもんのじやうもとやす》は、俊寛|成経《なりつね》康頼等《やすよりら》三人の赦免状《しやめんじやう》を携へてゐる。が、成経《なりつね》の妻になつた、島の女|千鳥《ちどり》だけは、舟に乗る事を許されない。正使《せいし》基康《もとやす》には許す気があつても、副使の妹尾《せのを》が許さぬのである。妻子《さいし》の死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乗せる為に、妹尾太郎《せのをたらう》を殺してしまふ。「上使《じやうし》を斬りたる咎《とが》によつて、改めて今|鬼界《きかい》が島《しま》の流人《るにん》となれば、上《かみ》の御《お》慈悲の筋も立ち、御《お》上使の落度《おちど》いささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船を勧《すす》めながら、従容《しようよう》と又かうも云ふのである。「
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング