判と雖《いへど》も亦《また》推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後《のち》よく砂と金《きん》とを辨じ得るかどうか、私は遺憾《ゐかん》ながら疑ひなきを得ないのである。
よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日《こんにち》の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日《みやうにち》の私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確《たしか》である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。成程《なるほど》ダンテの地獄の火は、今も猶《なほ》東方の豎子《じゆし》をして戦慄《せんりつ》せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我との間《あひだ》には、十四世紀の伊太利《イタリイ》なるものが雲霧《うんむ》の如くにたなびいてゐるではないか。
況《いは》んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍《ふへん》の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底《てい》の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かで
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