、何百円と雖《いへど》も高い事はない。それを五十円に値切りたいのは、僕に余財のない悲しさである。しかし大雅の画品を思へば、たとへば五百万円を投ずるのも、僕のやうに五十円を投ずるのも、安いと云ふ点では同じかも知れぬ。芸術品の価値も小切手や紙幣《しへい》に換算出来ると考へるのは、度《ど》し難い俗物ばかりだからである。
Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出来の好《い》い、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」を欲しがつてゐた。処が実際二度までも莫迦《ばか》に安いレムブラントに遭遇した。一度は一|磅《ポンド》と云ふ価《あたひ》の為に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin に諮《はか》つた上、とうとうそれを手に入れる事が出来た。その画《ゑ》はどう云ふ画だつたか、どの位の金を払つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或|質店《しちみせ》の店さきである。
かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の大雅《たいが》を得んとするのは、必《かならず》しも不可能事ではないかも知れぬ。何処《どこ》か寂しい町の
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