しまひましたから、この脳天の入れ墨だけ取り残されることになつたのだとか、当人自身申して居りました。……さう云ふことは兎も角も、父はまだ十五のわたしを可哀さうに思つたのでございませう、度々丸佐に勧められても、雛を手放すことだけはためらつてゐたやうでございます。
 それをとうとう売らせたのは英吉と申すわたしの兄、……やはり故人になりましたが、その頃まだ十八だつた、癇《かん》の強い兄でございます。兄は開化人とでも申しませうか、英語の読本《とくほん》を離したことのない政治好きの青年でございました。これが雛の話になると、雛祭などは旧弊だとか、あんな実用にならない物は取つて置いても仕方がないとか、いろいろけなすのでございます。その為に兄は昔風の母とも何度口論をしたかわかりません。しかし雛を手放しさへすれば、この大歳《おほとし》の凌《しの》ぎだけはつけられるのに違ひございませんから、母も苦しい父の手前、さうは強いことばかりも申されなかつたのでございませう。雛は前にも申しました通り、十一月の中旬にはとうとう横浜の亜米利加《アメリカ》人へ売り渡すことになつてしまひました。何、わたしでございますか? それは駄々もこねましたが、お転婆だつたせゐでございませう。その割にはあまり悲しいとも思はなかつたものでございます。父は雛を売りさへすれば、紫繻子《むらさきじゆす》の帯を一本買つてやると申して居りましたから。……
 その約束の出来た翌晩、丸佐は横浜へ行つた帰りに、わたしの家へ参りました。
 わたしの家と申しましても、三度目の火事に遇つた後は普請《ふしん》もほんたうには参りません。焼け残つた土蔵を一家の住居《すまひ》に、それへさしかけて仮普請を見世《みせ》にしてゐたのでございます。尤《もつと》も当時は俄仕込《にはかじこ》みの薬屋をやつて居りましたから、正徳丸とか安経湯《あんけいたう》とか或は又胎毒散とか、――さう云ふ薬の金《きん》看板だけは薬箪笥《くすりだんす》の上に並んで居りました。其処に又|無尽燈《むじんとう》がともつてゐる、……と申したばかりでは多分おわかりになりますまい。無尽燈と申しますのは石油の代りに種油を使ふ旧式のランプでございます。可笑《をか》しい話でございますが、わたしは未《いまだ》に薬種の匂、陳皮《ちんぴ》や大黄《だいわう》の匂がすると、必《かならず》この無尽燈を思ひ出さずに
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